タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/11/29

ご飯は人数が多いほどおいしい


前回の記事『日本にタイ寺院はいくつある?』に関連して、ひとつだけ、触れておきたいことがある。


それは、ブログの記事を書く際にインターネット上で見かけたいくつかのサイトに、タイ寺院へ行けば、『タイ料理が無料』『タイ料理が食べ放題』であるといったような記述があったことについてである。


確かに、タイ寺院の人たちは、全くの初対面の人であったとしても、まるで家族であるかのように親しく食事を一緒に食べようと誘ってくれる。


実に優しく、また大変気さくに話しかけてくれて、ご飯を食べていくようにと勧めてくれる。


実は、これはタイ現地においても全く変わらない風景だ。



今や“知らない人にはついていくな”と教育されている日本人にとっては、おおよそあり得ないことで、何か裏があるのではないかとか、騙されるのではないだろうかとか、さまざまなことを勘ぐってしまないだろうか。



タイでは、習慣として、一人で食べる食事は“おいしくない”とされていて、たくさんの人数で食べる食事が“おいしい”とされている。


お寺の捉え方も日本人とは全く違う。


お寺へ足を運ぶこと自体が『徳』を積む行為であるとされており、食事や必要物資を比丘やサンガへとお布施をする行為は、さらに大きな『徳』を積む行為であるとされている。


そうした『徳』を積んだ喜びをみんなでわかち合い、みんなで喜び合うのだ。


食事は人数が多いほどおいしいのだから、家族や友達ではなかったとしても、一緒にご飯を食べていこうと、気軽に誘ってくれるのだ。


最近、日本でよく見かける“お一人さまご飯”などあり得ないことだ。



さて、タイのお寺では、形式上は比丘たちに献上された食事で、比丘たちが食べきれなかった分をいただくという建前であるが、実際には在家者の分も準備されている。


多くの場合は、比丘たちも、在家者たちも、好きなものを好きな分だけ取って食べるという“セルフ形式”で食事を行う。



その意味においては、『タイ料理が無料』で『タイ料理が食べ放題』であるともいえなくはないのだが・・・。











しかし、ここで一言だけ物申しておきたいのは、決して『無料』で『食べ放題』だと思って欲しくはないということと、決してそれを目的にはして欲しくはないということである。



タイのお寺では、食事の回数は、朝食と昼食の一日二食という決まりがある。


すなわち、午前中しか食事を摂ることが許されていない(森林僧院の系統では、一日一食、朝食のみの食事となる。)。



また、日本のお寺ではお布施といえばお金であるが、タイのお寺では、通常、『食べ物』をお布施する。


もちろん、お金でお布施されることもあるのだが、食べ物をはじめとした、比丘たちの日常の生活用品をお布施するというのが一般的である。


そのため、食べ物や生活上の物品、そしてお金を封筒に入れたものを添えてお布施されることが多い。



食事は午前中しか摂取できないという決まりから、朝食前か昼食前にお布施の儀式が行われ、比丘たちが食事をとったのちに、その後、在家者たちが食事をとるという流れになる。



余談ではあるが、大きなお布施(大口の寄付や寄贈)や行事(行事はお布施がメインである)が行われる際には、たくさんの料理がお布施されるため、必ず午前中に執り行われることになっている。



タイの寺院では、このような決まりというか、常識というか、慣習があるのである。
















タイ人は、こうしたお布施を喜んで行う。


なぜならば、それは、『徳』を積む行為であるからだ。


その『徳』積みの行為は、常に重ねていくべきもので、自分の身に応じた分のお布施を行いながら、積み重ねていく。



さて、ここで、日本人であれば非常に気になるのが、お布施の『額』だろう。


いくらほどお布施として渡せばよいのかだ。


お布施の金額をタイ人にたずねると、決まって誰であっても『いくらでもよいと』答える。


そして、この答えに大変困惑してしまうのが日本人である。



日本では、お布施の金額が決められていないことに対する困惑や不満は、よく聞く話ではないだろうか。


しかし、ここまで述べてきた通り、お布施の額とは本来決まっているものではないし、決められるべきものでもない。


それは、読者の皆様であれば、すでに十分にご理解されているところであるかと思う。



日本において一般的にお布施とは、僧侶に対して支払う“代金”のことであり、対価であると認識されている。


さらに、『お布施』という言葉は、僧侶に支払う“代金”であることから、決して喜んで行うものではなく、非常にマイナスなイメージを伴うものとなっている。



その支払う“金額”が、対価として著しく見合わないと感じるからこそ、社会問題ともなっているのではないだろうか。



そもそも、お布施を『対価』であると認識している時点で、本来の意味でのお布施ではなく、喜びでもなければ、『徳』積みでもない。



“日本人的な感覚”として、対価が見合わないというのであれば、タイ人はもっと対価が見合っていないかもしれない。


タイには、ひとつの寺院を個人で建てて寄贈したりすといったことがある。


あるいは、僧侶が起居するための小屋や居室、建物を建ててお布施するといったことがよくある。


これは決して、珍しいことではなく、大寺院だけに限らず、町や村のごく普通の寺院においても見られる、ごく普通の風景なのだ。



日本人であれば、なぜそのようなところにお金を使うのだろうか?・・・と思うのではないだろうか。



このような高額のお布施は、日本においても見られることではあるが、相当まとまった額のお布施を行う人たちがごく当たり前にいるのだ。


さらに、すべて『徳』を積む行為として、しかもそれが『喜び』であるというのだから、非常に驚かされる日本人は多いはずである。


まさに、文字通りの『随喜』として、お布施が生きている。



こうした行為を支えているのが仏教思想である。


すなわち、『徳を積む』という考え方であり、仏教やサンガや比丘に対する篤い信頼と信仰だ。



深く仏教が根付いており、仏教が生きているという証でもある。



お布施の金額や量はいくらでもよい。


今の自分の身の丈に応じた、思った分だけの金額や量を、心を込めてお布施をすれば、それで全く構わないのだ。


それがそのまま大きな『徳』となる。



話が少し逸れてしまったが、くれぐれも、『タイ料理が無料』『タイ料理が食べ放題』を目的としてタイ寺院を訪問して欲しくはないと思う。



日本にあるタイ寺院は、タイ人によるタイ人のためのお寺であるという性格が非常に強い。


お寺は、日本に在住しているタイの人たちの交流の場であり、心の安らぎの場であり、仏教の教え聞く場であり、仏教の実践に励む場である。



こうした心の拠り所に、たくさんの人たちが集うのである。



お布施をして『徳』を積み、その後、食事をともにするという、信仰の楽しみと、人との交流の楽しみを併せ持った『喜び』がそこにはあるのだ。


日本のタイ寺院ではあるが、タイ現地のお寺と何ひとつ変わらない。


だからこそ、タイのお寺で行われている通りの姿がそこにあるのであり、タイの生活サイクルや習慣がそのまま日本のタイ寺院のなかに生きているのである。


日本の社会の中にありながらも、また日本の社会に溶け込みつつ、仏教に基づいた考え方とタイの慣習をはじめとして、タイの伝統的な生活がしっかりと守られているのである。



是非とも、『徳』を積みつつ、タイの常識を尊重して欲しいと思う。


そして、タイの人たちとの温かな交流を楽しみながら、本場のタイの料理を味わっていただきたいと思う(部外者である私が言うのも、全くの筋違いであるとは思うのだが・・・)。



その時、得ることのできる『喜び』は、何百倍にも大きなものとなるに違いない。




(『ご飯は人数が多いほどおいしい』)






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