タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2024/02/09

今、ここで真剣になれない者がいつ真剣になれるのか?

高度な瞑想を求める者がいる。



聖者の域に入りたい。


禅定に入りたい。



・・・でも、今の環境では無理だ。


在家生活をしているから瞑想ができないんだ、働いているから瞑想の時間が取れないんだ、家庭生活を送っているから瞑想どころではないんだ・・・



そのようにおっしゃる方を何人も見てきた。


ところが、よくよくお話に耳を傾けていくと、瞑想を習慣づけることができないであるとか、毎日瞑想を実践していくことが難しいであるとか、1日3分の瞑想すら継続することができないらしい・・・


こうしたお声をどのように受け取られるかは、多分に個人の価値観次第ではあるが、高度な瞑想を求めておられるので、日々相当な実践を積んでおられるのかと思いきや、意外にそうではなくて、基礎的な実践ができないとおっしゃる方に、高度な瞑想を求める傾向がとても多くあるように感じる。


高度な瞑想を求めるのは・・・瞑想を実践したいができないという抑圧された願望がゆえなのだろうか。



これは、私自身に対する自戒の念を込めて書かせていただくのであるが、実践を環境のせいにしてはいけないと思う。


特にヴィパッサナーの瞑想では、日常のあらゆる動作を気づきのきっかけとして、気づきを育てていくことができるし、またそうでなければいけない。


何も静かに坐っている時間だけが瞑想なのではない。


むしろ、実生活や実社会の場こそが、実践の場ではないか。



とはいえ、もちろん、環境は大切だ。


日本には、タイのように、いつでも誰でも瞑想の実践ができる寺院や僧院があるわけではない。


仏教や瞑想を学び、それらを実践するための場そのものがない。


さらには、瞑想実践者が応援されるような社会的環境でもない。


応援されるどころか、瞑想したいと言えば、むしろ奇異な目で見られて、変人扱いをされてしまうだろう。


仏教に理解がないのが普通であるのだから、当然のことながら、家族に理解があるとも限らない。


一人静かに過ごし、瞑想を実践できる場がない。


自宅でも一人静かに過ごせて、瞑想することができる時間そのものがとれないのだから、いつ一人静かに瞑想しろというのか・・・とおっしゃることだろう。


そのような方を何人も見てきている。


そのお気持ちは、本当によく理解できる。



私にもタイから日本へ帰国した際は、あまりの環境の差に衝撃を受けてしまい、瞑想から離れてしまった経験がある。


日本は、瞑想の環境ではないのだ。


それは、私にも痛いほど理解ができる。



しかし、敢えて断言させていただきたい。



そうではないだろうと。



今、ここで真剣になれない者がいつ真剣になれるというのか?


今、ここで、今、この場で、今、真剣になれない者が、たとえタイのような瞑想に適した環境や、森林僧院のような素晴らしい環境のもとで出家することができたとしても、真剣に瞑想へ打ち込むことなど絶対にできない。


幸運にも条件に恵まれることができて、瞑想に打ち込むことができたとしても、それはごく一時的なものに終わってしまうだろう。


そうでなければ、あまりに恵まれた環境に酔いしれてしまって、実践が疎かになってしまうか、そこそこで瞑想が嫌になってしまって日本へ帰って来るかのどちらかだ。








たとえ、家族と同居していたとしても、たとえ一人になる時間がなかったとしても、たとえどれだけ仕事が忙しかったとしても、瞑想はできるし、気づきを磨いていくことはできる。


どんなに目の前のやるべきことが忙しかろうと、心の動きを観察していくことはできる。



ただ気づいていくだけでいい。


心が動くたびに、しっかりと注意深く気づいていく。


うっかり感情や思考にのみ込まれてしまったとしても、ハッとした時点で、その都度、気づいていけばいいのである。



確かに環境は大切だ。


環境によって人は変わっていく側面はあるのだけれども、今やるべきことや今できることを実践しないような人間が、たとえ環境に恵まれたからといって、実践する人間になるとは思えない。


なぜならば、環境が変わったとしても、人間の中身そのものが何も変っていないからだ。



タイにだって、家庭生活を営みつつ、日々の仕事に励みながら瞑想へと打ち込んだ在家の瞑想実践者の話はたくさんある。


その気になれば、どのようなかたちであっても実践可能なのである。


いくつかそうした人の伝記を読んだことがあるのだが、さすがは語り継がれるような人物だと頭がさがるほどの努力の人たちばかりだ。


自身と比べることが実に恥ずかしく、比較にならない。


そのような伝記からは、自身の実践など実践のうちに入らないと思い知らされる一方で、そういった工夫の仕方もあるのかと大いに励まされることばかりである。



どんなに忙しくとも実践可能であることの証左だ。



高度な瞑想を求める方や今の環境では瞑想実践はできないと嘆いている方。


今一度、確認をしていただきたい。



例えば、今、気づいているだろうか?


心と身体の動きを観察できているだろうか?



例えば、今、目の前に並んでいる食べ物を見て彩を楽しんではいないだろうか?


口にした食べ物の味を楽しみ、その味覚に酔いしれてはいないだろうか?



きちんと気づけているだろうか?



いつでもどこでも気づきの実践は可能だ。



どんなに小さな実践であったとしても、実践を重ねていくのが法の実践者ではないか。


できることを見つけて実践し、心を磨き、徳を積み上げていくのが法の実践者の姿ではないか。



冒頭にも申し上げたことであるが、日常のあらゆることを気づきの“きっかけ”としていくことができるし、また“きっかけ”としていかなければならないのだ。



環境が悪い、条件が揃っていない・・・だから実践することができない。



そのように言いたい気持ちは、とてもよくわかる。


しかし、そもそもは、自分の思い通りにはならない、どうにもならない状況に対して、いかに向き合い、いかにつき合っていくかということを問うていくのが仏教なのではないか。


その代表が、老・病・死だ。


自分の思い通りにはならない、どうにもならない状況に対して、いかに向き合い、いかにつき合っていくかだ。



今、目の前にある問題を解決したら、問題は全て消えて無くなってしまうとでも思っているのだろうか。


そうではない。


問題は、どの立場にあったとしても、どの環境にいたとしても、どんな条件下にあったとしても、起こるものであるし、どこまでも追いかけてくるものだ。


問題は、あるのが当然であり、あるのが普通であり、あるのが自然なのだ。


だからこそ、問題が問題ではなくなっていくのではないだろうか。



仏法はこの私のところにあるのであり、むしろ身近なところに仏法を見出していくことが学びなのであり、法の実践なのであり、瞑想であるのではないか。



ダンマは、どこか遠いところにあるのではない。


ダンマは、あなたのすぐ足元にある。


ダンマは、あなたとともにある。



私は、そのように師と僧院長から親しく諭され、タイの山奥の僧院から送り出していただき、日本へと帰国した。



日々のちいさな実践に励んだその先にあるのが高度な瞑想なのではないだろうか。


・・・私は、そう思っている。







(『 今、ここで真剣になれない者がいつ真剣になれるのか?』)






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