最近、私の比較的親しい人間関係にある者の訃報が続いている。
しかも、同年代、あるいは私よりもずっと若い者たちばかりである。
特に心を動かされたのは、瞑想仲間とも言える友の死だ。
彼への追悼の意を込めたいのと、やはりどうしてもここに書いておかねばならないと思い、書かせていただきたい。
(※個人を特定できるものではないため、ここに綴ることに問題はないものと判断した。)
彼は、非常に瞑想熱心で、かつ勉強熱心であった。
探求心も旺盛で、疑義が生じた場合には、積極的に質問をしていた。
しばらくの間、ご無沙汰であったのだが、実に久しぶりに私に宛てに連絡があった。
そこに綴られていたのは、不治の病とともにある状況だということであった。
・・・その言葉が忘れられない。
「すごく仏教徒には、もってこいのシチュエーションじゃないですか?」
(※追悼の意を込めて、彼の言葉をそのまま引用させていただいた。)
残念ながら、これが最後の連絡となってしまった。
仏教の瞑想修行では、死隨念といって、常に「死を観察しなさい」と言われ、どんな生命であっても死ぬのであるということを観察していく。
死を現実のこととして、常に思いなさいということが頻繁に言われる。
また、肉体は不浄なるものであり、苦しみの原因であり、病の巣窟であるということを観察していく。
不浄隨念(不浄観)という修行である。
タイでは、それらを修するために、直接、死体を眺めながら瞑想する修行があるのだ。
私も修行者として、実際の死体を眺めながら瞑想を実践する機会を得た。
しかし、どうであろうか。
いくら死を観察しようとも、いくら不浄を観察しようとも、どこまで行っても、所詮は他人事としてしか見ることができない自分がいた。
どうしても、自己への執着から離れられない自分がいたのである。
どれだけこうした瞑想を重ねたとしても、「死」という“現実”を目の前にした時、「ああ、そうか」と受け入れられるであろうか?
情けないことに、私は、甚だ疑問だ。
それが証拠として、ご高齢の方の死であれば、まぁ、そんな年齢だろうと心に思う自分がいるではないか。
「大往生」などというが、当の本人にしてみれば、大往生も糞もない。
死ぬのはいくつになっても嫌である。
それが本音だ。
喜んで死を歓迎する者などいないのである。
私にとっては、無常・苦・無我を腑に落とし切るのは並のことではない。
ここまで突き詰めて考えてみると、彼のように、“現実”に「死」を突き付けられた状況から言えば、このような修行など、実に、空虚なものだと感じざるを得ないのではなかろうか。
ここで、脳裏に彼の言葉がよみがえってくる。
「すごく仏教徒には、もってこいのシチュエーションじゃないですか?」
彼が言う通り、この状況下に置かれてこそ、本物の瞑想修行になるのではないか。
とはいえ、他人事にしか思えない私たちが、こうした修行を実践することが無意味だとは思わない。
日頃より、真理に親しみ、真実の姿を観ていこうとする「姿勢」を養っていくことは、非常に大切なことだからである。
私がよく使う例え話であるが、わかっていて落とし穴にはまってしまうのと、全く知らずにいきなり落とし穴にはまってしまうのとでは、受ける衝撃の度合いには雲泥の差があるということだ。
であるから、真理を知らないよりは知っていた方がいいし、実践をやらないよりはやった方がいいに決まっている。
心の底から死への恐怖や肉体への執着を払拭することができなくとも、日頃から親しんでおくことくらいはできるからである。
死を観察したり、不浄を観察したりすることは、先にも述べた通り、さまざまな意義がある。
自己の肉体への執着を離れ、無常なるを知る。
ひとたび縁が尽きれば、崩れゆく存在であるという真実を知る。
この世の中の無常なるを知る・・・
果たして、彼は、どうであったであろうか。
彼は、病に侵される以前から瞑想修行に励んでいた。
日頃から“仏教の修行として”瞑想に励み、「死」というものに対面してきたはずである。
それだからこそ、
「すごく仏教徒には、もってこいのシチュエーションじゃないですか?」
という言葉を語ることができたのではないだろうか。
彼もやはり、私と同じく、所詮は他人事ではないかと感じたのだろうか。
あるいは、真正面から死という現象を受け入れることができたのであろうか。
このブログでは、何度か「不浄観」についての記事を掲載してきた。
実は、私は、常にこうした疑問と隣り合わせであり、常々、感じてきたことであったが、彼の死をきっかけに、もう一度、向き合うことができたように思う。
ところが、やはりと言うべきか・・・真摯に向き合えば向き合うほど、他人事にしか思っていない自分がいたのであった。
他人事だからこそ、今、このようにしてごく普通に過ごしていられるのだ。
もしも、本当に「死」を目の前にしたとしたら、私は一体どうなってしまうだろう?
気が狂うだろうか。
正気でいられるだろうか。
私には自信がない。
彼は、一体、何を思い、何を感じ、何を悟って死んでいったのであろうか。
もしかすると、このことは、私自身がその立場になるまで、わからないのかもしれない。
彼は、瞑想を積んでいた人間だ。
私などよりも、はるかに熱心で、真面目であった。
きっと、彼なりの境地に至っていたに違いないと信じる。
そして、善き生まれ変わりを果たしているものと信じる。
ひとくちにこうだという答えの出ない問題なのかもしれないが、仏教徒として恥じない姿勢を育てていきたいと思う。
彼の悩み苦しみがなくなりますように。
彼に悟りの光りが現れますように。
彼が幸せでありますように。
明るくて、おだやかでありますように。
(『瞑想仲間の死に思ふ』)
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