タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2021/07/29

瞑想は簡単ではない!

 

最近、私は瞑想の効果・効能と言うことに関して、特に焦点を当てている。


確かに瞑想は、確実かつ着実に効果が得られるものであり、また高い再現性を持つものである。


しかし、さらに深い実践たる仏教の修行として瞑想を実践しようとした場合、そう簡単に深まっていくものではないと言うのが、個人的に感ずるところである。



瞑想のごく入り口の部分では、私が焦点を当てているような効果・効能を、比較的容易に感じることができる。


しかし、その先は、いかに継続できるかと、どれだけ環境を整えていくことができるかが、習熟の度合いを深めていくポイントになるのではないだろうか。




私たちが生きていくにあたり、思考的に問題や課題を解決して越えていく方法と、精神的に問題や課題を解決して越えていく方法とがあるかと思う。


これは、どういうことかと言うと、問題や課題を“頭”で思考的に整理をしていくことで、解決をはかることができる。


つまり、論理的思考によってものごとを分析し、解析していくことで、事象の姿を観ていく方法だ。



一方で“頭”で思考的に捉えていくのではなく、精神的な処理によって解決していくことで、問題や課題を越えていく方法があると思っている。


仏教で言えば、前者が教義・教学、仏教の学問という論理からの見方であり、後者が瞑想実践を通じた経験的、体験的方法論である。


両者は、車の両輪の如くであり、本来は全く別物ではないし、別物であってはならない。


また、どちらが欠けてもいけないものではあるが、精神的な解決あれば、論理は後からついてくるものでもあるので、思考的な分析のみが先行し過ぎてしまうと、割り切れない部分(解決し切れない部分)が発生する。


所謂、机上の空論となってしまうから、注意が必要だ。











さて、ここで冒頭の話題に戻りたいと思う。


高度な集中状態や高度な観察状態は、単刀直入に言って、誰にでもできるものではない。


極めて近い境地であったり、その入り口の境地であったりに達している人はいるであろう。


あるいは、その“欠片”を体験した人はいるだろうと思うのだが、総じて、極めて容易ではない境地だと思う。



例えば、アーナパーナサティであれば、入り口の段階においては、呼吸の出入りの感覚へと集中を高めていくのだが、これがなかなか難しく、容易になし得るものであるとは言い難い。


また、光の玉を思い浮かべて集中対象とする、サマタ的な手法をとるタンマカーイの瞑想法についても同様で、光の玉を思い浮かべて、維持し続けることができるほど高度な集中状態を保つのは容易ではない。


実際に、私の周囲にいた修行者たちに尋ねてみたことがあるのだが、光の玉を維持できているかと言えば、光の玉さえも鮮明に思い浮かべることができない修行者ばかりであった。


それだけ高度な技術であり、非常に難しいということである。



ちなみに、タンマカーイの瞑想法は、サマタであるという批判に対して、本来はサマタの段階を経てヴィパッサナーの段階へと進むため、最終的にはもちろんヴィパッサナーなのだが、修行者のレヴェルがサマタに終始してしまうので、サマタの指導しかできないのである、とタンマカーイ寺院側は説明していると聞いたことがある。


サマタしか指導していない理由の説明として、わからないではない説明ではあると感じた。



このように、瞑想に専念できる環境にあったとしても、高い集中の境地や観察の境地に入るには、やはり相当難しいということである。



況や、在家で社会生活を送っている私たちの環境下で、瞑想を実践していこうとしても、全く望めないのではないか。


少なくとも、高い境地は、極めて困難であると言わざるを得ない。



どの程度の精神状態に入ったかということは、その本人にしかわからないことであるし、比較するにもできないものである。


しかし、多くの場合は、高いといっても、入り口の段階においては高いレヴェルだという程度なのではないかと思われる。


それはそれで良いのだが、では私たちはどのように瞑想と向き合っていけば良いのだろうか。


できる限り高い境地へと至りたいと思うのは、もちろんのことではあるし、少しでも近づいていきたいと思う。


ところが、あまりにもハイレヴェル過ぎては、「絵に描いた餅」に成り下がってしまう。



過去の私は、そこで意味のないものとしてしまっていた。


しかし、決してそうではない。


ここで実践不可能だとしてしまうのは、あまりに早計であると私は言いたい。



冒頭で触れたように、瞑想本来の目的ではないけれども、まずは効果・効能を“一里塚”として瞑想に取り組んでもよいのではないだろうかと思う。


今、自分が置かれた環境の中で、今の自分にできる範囲のことを実践していけば良い。


それは、良い意味で仏道へと入っていく「手立て」となるのではないかと思うし、道を進んでいく上では、とても大切なものなのではないかと思う。



瞑想とは、実に上手くできていると思う。


ごく初期の段階では、比較的顕著にその効果・効能を体験させてくれる。


ところがどっこい、本格的に瞑想へと入ると、なかなか進まない。


試行錯誤に試行錯誤を重ねて、道を進んで行くことになる。


もっとも、その試行錯誤を重ねていくなかで、大切な“道”を見い出していくのだが。




(『瞑想は簡単ではない!』)






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