タイで出家する方がいいですか?
それともミャンマーで出家するほうがいいですか?
どのように思われますか?
このようによく質問されることがある。
はっきりと申し上げて、自分の目で確かめて、自分で決めてください、としか言いようがない。
私は、タイのことしか知らない。
大学2回生の頃、教授が私的に企画してくださった仏教学研修旅行でミャンマーの僧院を訪問したことがあるのだが、ミャンマーでの出家生活を知っているわけではないし、ミャンマーで瞑想を修学したわけでもない。
ただ私の修行仲間や瞑想仲間たちから伝え聞いている範囲で言うならば、タイとミャンマーとでは、同じテーラワーダ仏教国とはいっても、やはり違いはあるようで、瞑想の指導方法やその特長に差があるようではある。
国や地域が違えば、そもそも国民性や地域性が違うのだから、差があって当然だろう。
こればかりは、ご本人が仏教や瞑想に対して、どういったものを求めているのかに応じて、やはりご自身の目で確かめたうえで選んでくださいとしか言えない。
私について言えば、迷ってもいないし、比較もしていない。
ほぼ一直線にタイの森林僧院での出家と瞑想の修学・修行を志した。
タイで出家できたことを喜びに感じているし、もちろん後悔など微塵もない。
タイの仏教では、出家したお寺にずっといなければならないということはない。
(ただし、出家して5年間は出家したお寺で師匠について学び、比丘としての基礎を身につけなければならないとされている。)
自身の師を探すためにお寺を移る者もいれば、自身に合った瞑想を求めて各地の瞑想寺院や瞑想センターへと修行に出る者もいる。
あるいは、仏教の学問を深めるために街の学問寺とへ移っていく者もいる。
さらに瞑想を深め、さらなる自身の求道と修行のための遊行や頭陀行へと出る者もいたりする。
どのように出家生活を過ごすかは本人の自由なのである。
私が出家した山奥の小さな森の修行寺のようなお寺であっても、ゆるやかに比丘の往来がある。
長らく過ごしていると、修行の場を求めて旅をしている比丘が立ち寄ったり、より瞑想に適した環境を求める遊行の比丘が移って来たりする。
こうした修行ができるところがタイの仏教の大変良いところだ。
私は、非常に幸運であった。
私が出家をした僧院の住職に熱意を汲んでいただき、特別にタイ国内のさまざまな修行寺で瞑想を学ぶことを許可していただいた。
そのお陰で、たくさんの瞑想法を学ぶことができたし、実に多く仏教のあり方を知ることができた。
タイでは、自分が最も良いと思う修行を実践していくことができるのだ。
そうした選択肢のなかのひとつにワット・パー(森の寺)と呼ばれる『森林僧院』があるのである。
タイの森林僧院や修行寺の中でも、最も厳しい部類だといわれている僧院で長らくお世話になり、瞑想の修学・修行をさせていただいた。
タイでの学びの全てが、私の人生の『糧』となっているのだが、なかでもこの僧院での学びは大きかった。
外部から別の寺院へと入る際には、一番初めに僧院長ないしは住職へと挨拶をし、止住の許可を請わなければならない。
(大寺院の場合は、大寺院であるがゆえに僧院長や住職に通してもらえない場合がある。その場合は、部門を統括する比丘へと挨拶し、その指示に従う。)
その後、起居する部屋の案内されたり、指導を仰ぐ比丘を紹介されたり、細かなことが指示される。
どこのお寺であっても、やはりそのお寺での一番の『長』に挨拶をさせていただく瞬間というものは、緊張そのものである。
ところが、どこのお寺の僧院長や住職であっても、そんな私の緊張などどこ吹く風で、とても涼しい顔をしているのである。
どこの僧院長であっても、どこの住職であっても、驚くほどあっさりとした返事なのだ。
『おお、そうか。』
『うむ、よろしい。』
『わかりました。それはいいことだな。』
このような具合だ。
もっとも、私としてはその一言で“許可”を得ることができたのであるから、それはそれで全く構わないわけなのだが、日本人からするとあまりの素っ気なさに驚くかもしれない。
さて、タイで最も厳しい部類だといわれている森林僧院を訪ね、緊張した面持ちで僧院長に挨拶をさせていただいた時のことである。
そこで僧院長から一言お言葉をいただいた。
『ここでは、生活そのものが瞑想です。
そのつもりで過ごすように。』
このように言われた。
私は、正直言って、“生活そのものが瞑想”の意味するところがよくわからなかった。
タイで最も厳しいと言われている僧院で学べば、必ずや瞑想が深まるに違いない。
他のお寺にはない素晴らしい指導と厳しい修行によって、立派に鍛え上げられて、育ててもらえるに違いない。
きっと悟りに近づけるに違いない!
そのように考えていた。
なぜならば、タイでは誰もがあそこは厳しいお寺だと口をそろえて言うほどの僧院だからだ。
ところが、どうだろうか・・・
来る日も来る日も、何にもない。
この森林僧院へ来た時には、すでに他の僧院での修行経験もあったのだが、特に厳しいということはない。
それどころか、瞑想に関する指導すらないではないか。
これは、一体、どうしたことか・・・
なんにも指導してもらえないようなお寺など、実にがっかりである。
私は、仏教を学ぶために、また瞑想を学ぶために、はるばる遠く日本からタイまで来たのである。
遊びに来たわけではないし、単なる“体験”をしに来たわけでもないのだ。
なんにもないのなら、こんなお寺などさっさと出て、もっとしっかりと瞑想を指導していただけるお寺や自分を鍛えてもらえるお寺へと移ろう・・・このように考えていた。
そんなある日、僧院長からいただいた
『ここでは、生活そのものが瞑想です。
そのつもりで過ごすように。』
という言葉について、どういった意味なのか、ふと気になった。
わかってわからないこの言葉の意味するところを直接、質問してみようと僧院長のもとへと行った。
・・・すると僧院長は、
『坐って瞑想している時だけが瞑想なのではないのですよ。
あなたの生活のすべてが瞑想なのですよ。
『気づき』は、ある一時だけあればいいというものではない。
常にはたらかせていないといけないのだよ。
そうではありませんか?』
このように言われた。
私は、この時、ハッとして、嗚呼・・・そうか!と思った。
以降、最初に僧院長に言われた通り、“そのつもりで”過ごすようになったのだった。
とはいえ、腑に落ち切ったのは、そのさらにのちのことである。
腑に落とすことができたのは、日頃の心掛けがあってこそのものだったと、振り返りながら思うところである。
どのようなことであっても同じことが言えるのだが、ただ何となく過ごしていたのでは、何も身につかない。
その気で取り組んで、その気で過ごさなければ、何もわからない。
僧院長は、そうしたことを前提のうえで、生活上のあらゆることを『気づき』の“きっかけ”としながら、生活のすべてを瞑想としていくようにというその心構えを示したのだろう。
そうしたことを私に対して一番最初の日に教えていたのである。
こんなお寺などさっさと出て行こうなどと考えていた自分が恥ずかしい。
結局、この森林僧院が私のタイでの出家生活のなかで最も長く過ごした僧院となった。
生活を瞑想とする。
瞑想を生活とする。
いわゆる『瞑想』の時間だけが瞑想なのではない。
いつでも、どこでも、どんな場面であったとしても瞑想であって『気づき』である。
ある特定の一時だけが瞑想であったのでは全く意味がない。
私は、今でも、機会があるごとに、このようにお伝えをしている。
それは、こうしたタイの森林僧院での経験があるからである。
タイでは、先生や指導者の方からはたらきかけてくれるということはない。
日本では、学びの場へと入るだけで、平等かつ一律に教えや学びを受けることができるが、タイの僧院ではそうではないし、特に瞑想の修学はそうではない。
自ら教えを求め、自ら自己に問いかけ、自ら師に質問し、自ら学んで解決していこうとしない限り、何ひとつ身につけて深めていくことはできない。
『ここでは、生活そのものが瞑想です。
そのつもりで過ごすように。』
あの時の僧院長からいただいた何気ない言葉のようにも聞こえるこの一言は、これほどまでに深いことを教えている言葉であったのかと、ただただ畏れ入るばかりである。
それもそのはず。
さすがは、タイで最も厳しい部類だと言われている森林僧院の僧院長からのお言葉だ。
この教えは、お寺や僧院内で瞑想している時だけのものではない。
日本へと帰国し、在家者として生活をしている今でも全く色あせることなく、益々活き活きとした教えを私へと伝えてくれ、常に語り掛けてくれている。
国は違えど、また出家在家の立場は違えど、そのようなことなど全く関係がないのである。
今ある私の生活そのものが瞑想なのである。
(『タイの或る森林僧院での教え』)
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