タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2023/01/29

輪廻転生の救い


実は、タイの人たちは、全員が全員、解脱を目指してはいない。


このようなことを言うと、真摯な仏道実践者の方々は驚かれるに違いない。



では、何を目指しているのであろうか・・・?


それは、我々日本人が求めているであろう頗る人間的なことである。



楽な生活だ。



以前、記事として取り上げた話題であるのだが(※1、関連記事:『出家の目的は?』)、出家者同士の会話で、『私は、阿羅漢になどなりたくはない。』とはっきり明言されたことがある。


この言葉には、大変驚いた。



ご存知の通り、阿羅漢とは悟りに至った覚者である。


阿羅漢となれば、再び輪廻の世界へ生まれて来ることはない。


私は、そうはなりたくはないというのである。



重ねて言うが、真摯な仏道実践者にとっては、非常に驚きの言葉だ。


解脱を目指すのではなく、来世には、今よりももっと楽な生活ができて、楽しく生活ができる境遇に生まれてきたいというわけである。






この写真はチベット仏教寺院で撮影したものであるが、
タイでも同様の輪廻転生図をよく見かけることがある。





タイ人たちとともに出家生活を送っていると、タイの人たちの人生観に触れることのできるエピソードと何度となく出会う。


そうしたなかのひとつで、無理をして是が非でも、今生で悟りへと至る必要などないではないかと言われたことがあった。




『そんなに考え過ぎるな、根を詰め過ぎるな。


この人生で悟りが開けなくてもいいではないか。


また、来世があるではないか。



来世でもまた人間に生まれてきて、きちんと仏道修行をすればいい。


だからこそ、今、たくさんの徳を積んでおくんだ。』




森林僧院でともに過ごした先輩比丘から言われた言葉だ。



この言葉を聞いて、どのようにお感じになるであろうか。



このような捉え方もあるのである。


なんと大らかなとらえ方なのだろう。



是が非でも今生で悟りを・・・と思い込んでいた私にとっては、どこか肩の荷が下りた気分だった。



輪廻転生を繰り返しているのである。


そのような中での『私』なのである。



タイの人たちは、輪廻転生を信じている。


信じているというよりも、ごく当たり前のことであり、大前提となっていることがらだ。


生まれ変わり死に変わりしていくなかにおいて、人生というものを捉えているのである。


悠久の時のなかを生きているのであり、そうしたなかのほんの一場面としての“今”を生きているのである。



この世だけで終わるのではないのだ。



仏教としては、輪廻転生を繰り返すということは、言うまでもなく推奨されるべきものではない。


ところが、タイで出会った先輩比丘たちは、輪廻というものに対して、驚くほど前向きなとらえ方をしていたのだ。


そうした輪廻という悠久の時間軸のなかを生きることによって、むしろ救いとなっているのではないか。


そう感じさえする。


そこには、悲壮感もなければ、切迫感もない。






タイで購入した絵葉書より
【天界】天界では一体どのような楽しい
生活が展開されているのであろうか・・・?





仏教では、基本的な理解として、悟りに至るまでには、長く時間をかけて修行しなければならないとされる。


そのためには、当然のことながら何度も何度も輪廻転生を繰り返すことになる。



それは大乗仏教においても同じで、悟りまでの時間は、三阿僧祇百大劫かかるとされており、仏道を成就するためには、遥かなる膨大な時間をかけて修行していかなければならない。


しかしやがて、漸悟と頓悟(※2)ということが説かれるようになり、速やかに悟る頓悟の方が優れているとされるようになり、膨大な時間の修行を経なくても、速やかに仏の悟りへと至ることができる道があると説かれるようになっていく。



※2、

・漸悟(ぜんご):順を追って悟りを開くこと。ゆっくりと悟りへと至ること。

・頓悟(とんご):長い時間の修行を経ないで、即座に速やかに悟りへと至ること。




日本の仏教では、宗派によって異なる部分もあるが、おおまかな流れとしては、これを継承している。



私と同じ地球上に生まれ、また私が生きているこの世界と同じ世界を生きたブッダは、今生で悟りを開かれた。


それならば、私も、私のこの一生で悟りを開くべきではないか。


そうでなければ、仏教など絵に描いた餅ではないか。



私のこの一生において悟りを開かないといけない・・・若い頃は、そのように考えていたが、今では少し捉え方が変わって来た。




『私は、阿羅漢にはなりなくはない。』と言った比丘。


『また来世に修行すればいいではないか。』と言った比丘。




これらの言葉も善い“きっかけ”を積み重ねていると捉えれば、それは決して悪いことではない。


また、まずは“楽な生活”を目指すのも、ひとつの『方便』として捉えることもできるのではないだろうか。



遥かなる悟りへの階梯の一段であると捉えれば、それもまた仏道実践の大きな流れのなかのひとつであり、着実に仏道を歩んでいることになる。



少なくとも、タイには、日本人が考える人生の時間軸に対する悲壮感や閉塞感はないし、この人生だけが人生ではないと考えている。


悠久の時の流れの中で、厭うべきものである輪廻転生というものが、むしろ救いともなっているようにさえ感じるのだ。




【関連記事】


※1、

『出家の目的は?』

(2010年05月10日掲載)


※2、

・漸悟(ぜんご):順を追って悟りを開くこと。ゆっくりと悟りへと至ること。

・頓悟(とんご):長い時間の修行を経ないで、即座に速やかに悟りへと至ること。




(『輪廻転生の救い』)






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