そして、小さな一般企業へ就職をした。
私は、実家に帰ることが長男に生まれた私が果たすべき義務だと思っていた。
しかし、満たされない日々であった。
しかし、満たされない日々であった。
悩み・苦しみを越える道である仏教を学んだはずなのに、逆に悩み・苦しみに押しにつぶされた。
4年間の修学が水の泡になってしまったような気がしてならなかった。
4年間の修学が水の泡になってしまったような気がしてならなかった。
わからない・・・仏教がわからない・・・人生がわからない・・・。
自分がやってきた4年間は一体何だったのか・・・。
自分がやってきた4年間は一体何だったのか・・・。
「仏教なんか勉強してきて何の役に立つっていうんだ?
せめて、経済学や法学でも勉強してきたのなら、社会の役に立つってこともあるだろうに。」
会社の上司からはそのように笑いながら揶揄された。
悔しかった。
同時に、心のもやもやを解決できずにいた自分の心を突かれたようでもあった。
全く言葉がなかった。
ただただ歯を食いしばり、無言でいることしかできなかった。
もう何年も前のことである。
しかし、この一言は今でも忘れることができない。
自分で言うのもあつかましいが、仏教を学ぶことへの志が強かったぶん、非常につらかった。
「大学とは、学問を探求する場であって、就職の踏み台ではない。」
これは、私の持論であるのだが、それは今も変わっていない。
しかし、現実は違う。
しかし、現実は違う。
就職を有利に進めるために大学へ行くのである。
就きたい職業のために大学で学ぶのである。
人生の目標とライフプランに従って進んでいくべきなのであろうが、私にはそのような人生は歩めなかった・・・。
そんな日々の通勤途中に読む本はといえば、全てが仏教関連の書籍ばかりであった。
街で目に入った本屋で無意識に手にとる本も全てが仏教書であった。
仏教を修学する場から離れても、やはり仏教のことしか考えることができなかった。
何冊か本を読んでいく中で、少しずつ私の心をとらえるものがあった。
それは、原始の仏教であった。
同時にそれまでは、あまり関心のなかった「瞑想」というものにも強くひきつけられた。
仏教を修学する場から離れても、やはり仏教のことしか考えることができなかった。
何冊か本を読んでいく中で、少しずつ私の心をとらえるものがあった。
それは、原始の仏教であった。
同時にそれまでは、あまり関心のなかった「瞑想」というものにも強くひきつけられた。
原始の仏教といっても、それぞれの地域でそれぞれの歴史を重ねてきているので、現在ではブッダの時代そのままの仏教というものは存在しない。
しかし、現存する仏教宗派のなかでは上座仏教が最も原始の仏教に近い形態をとどめている仏教であるということで、上座仏教に強い関心をもった。
なかでも、上座仏教の瞑想関連の書籍からは強いインパクトを受けた。
しかし、現存する仏教宗派のなかでは上座仏教が最も原始の仏教に近い形態をとどめている仏教であるということで、上座仏教に強い関心をもった。
なかでも、上座仏教の瞑想関連の書籍からは強いインパクトを受けた。
「これだ!!」
と思った。
学生時代に学び、読んできた経典の意味が理解できるような気がした。
人生の苦悩を超える大きなヒントがあると感じた。
ブッダ時代の仏教は、もっとシンプルであったはずだ。
シンプルであったからこそ、誰にでも理解ができたはずである。
誰にでも理解ができたからこそ、世界に仏教が広まったはずだ。
より原点に近い仏教を知れば、きっと仏教が理解できるに違いない。
この道ならばきっと理解できる!
より原点に近い仏教を知れば、きっと仏教が理解できるに違いない。
この道ならばきっと理解できる!
この道ならばきっと近づける!
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