タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2010/04/28

大学でのショック


高校への進学は、仏教系の高校へと決めていた。

ところが、私の住む地方には仏教系の高校がない。


キリスト教系の高校は、近隣にもたくさんあるのだが・・・。


仏教系の高校への進学が難しかったので、大学こそは仏教系の大学へ進学しようと決心し、いつしか仏教を学ぶことを志すようになる。

無事に某大学の仏教学科へ入学することができた。

書籍からしか学べなかった今までとは違い、大学での仏教の講義は非常に新鮮だった。

ところが、ここで大きなショックと出会うことになる。

仏教系の大学の仏教学科というのは、多くの学生は寺のあと継ぎで、住職の「資格」を取るためにやってくる。

つまり、家を継ぐために「仕方なく」やってくるのであって、真剣に仏教を学びたいと志して入学してくるような学生はいない。


愕然とした。


大学時代に学内の友人と仏教についての議論をした経験はほとんどない。

仏教の教理について興味をもっている学生などいないからだ。

このようなことを言った寺の息子がいた。


「お前はいい。なんでも自由に道を選べる。俺は、敷かれたレールを歩くだけだ。」


思えば、彼らも気の毒なのかもしれない・・・。

将来は寺の住職という職を約束されている。

しかし、逆に言えば、住職という職しか選択肢がないということでもある。

嫌でも住職をやらなければならない・・・それが彼ら寺の息子達だ。


あるいは、こんなことを言った寺の息子もいた。


「俺にとっては、寺がうまく経営できればそれでいい。お前の言うような生き方がどうのとか、仏教の教学がどうのなんていうことはどうでもいいんだ。」

「住職の資格を取って家に帰ればそれでいい。」


おそらくこれが彼らの本音なのだろう。

この言葉には、正直言ってショックを受けた。

次の世代を担うであろう住職のたまご達のこの言葉・・・彼らの本音に触れた。


彼ら寺の息子達にとって、大学の4年間というのは、卒業後に待っている寺という職業までのモラトリアムなのかもしれない。

かなり贅沢な、そして派手な学生生活を送っている寺の息子達が多い。

仏教の勉強をするために檀家さん達に大学へ送り出してもらったのではないか。

一生懸命に仏教の勉強に励んでいると信じている檀家さん方の気持ちを思うと心が痛んだ。

この派手な寺の息子達の学生生活にもショックを受けた。


しかし、これは勝手な私の思いだ。

彼らの側からしたら、やりたくもないことを強制されているのである。

それは、卒業後に待っているやりたくもない「仕事」への抵抗なのかもしれない・・・。


私も田舎から出てきた身だ。

かつて、玄奘がインドへ仏法を求めた姿に私の大学生活を重ねていた。

そこで待っていたのがこうした現実であった。


大学の母体である宗門では、最高学府とされている大学である。

また、仏教学では名をはせている大学でもある。

それだけにショックは大きなものがあった。


仏教は寺の経営学などではない。

職業でもない。

仏教という生き方だ。

仏教とは世の中のルールであり、真理だ。


ある大寺院の僧侶である先輩と出会った。


「飯だけは面倒をみてやるから、寺を手伝いに来い!」


と、なかば強引に誘われて、住み込みで先輩の寺の作務を手伝うようになった。


伝統的な仏教行事。

落ち着いた雰囲気の重要文化財の建物群。

あたたかい眼差しで見守ってくれる歴史を重ねた仏像達。

それらに囲まれて時を過ごした。

たくさんのことを学ばせていただいた。

楽しかったし、充実もしていた。

仏教の教理に関する話題も少なからずできた。


しかし、それは「仏教を生きる」ということではなかったようだ。

先輩の寺で見た姿は、仏教の殻をかぶった単なる「業務」であった。

寺の運営と経営・・・つまり「金」だ。

運営や経営を否定するのではない。

とても大切なことであることは言うまでもない。

しかし、私が言いたいことは、生きる姿に仏教を見いだせる人がいなかったということである。

寺の運営や経営の問題は、仏教があってこそだと私は思う。

歴史ある大寺院であっても、すでに仏教はなく、ただ「業務」をこなす姿しかなかった。


このように表現するとお叱りを受けることになるかもしれない・・・だが、少なくとも当時の私の目にはそのように映った。


やがて、大学卒業を迎えた。

残念ながら、心からひきつけられる人には出会えず、卒業と同時に先輩の寺を後にした。

確たる人生の答えを得られぬまま・・・。


大学を卒業すれば、仏教のかけらくらいは理解できるであろうと思っていたが、全く仏教を理解できていないことに気がついた。

むしろ、さらに深い苦悩の中に沈んでいる自分がいた。


仏教とは、悩み苦しみを越える道ではなかったのか?

仏教を学んでも全く変わっていない私の姿に、またもやショックを突き付けられたのであった。


4年間仏教を学んできたきた意味は一体何だったのか?


日本の仏教の世界に対するショック・・・

さらに自分自身の苦悩の姿を容赦なく見せつけられたことに対するショック・・・


この2つの大きなショックをかかえたまま大学を卒業したのであった。



⇒出家までのことを紹介します。

『タイへの道のり』



(『大学でのショック』)



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