日本もタイも年末年始の様子は、さほど変わらない。
ひとつのイベントであり、お祭り騒ぎだ。
ところが、お寺の中は違う。
特に森の中の修行寺での生活は、一般社会での生活とは全く異なる。
出家であるのだから、当然と言えば当然だ。
日本のお寺であれば、年末年始は正月準備で大忙しだろう。
しかし、タイのお寺の年末年始だからといっても、何の行事もない。
年末年始であろうが、いつも通りの生活。
いつもの通りの瞑想の日々なのだ。
実は、毎年この時期になると、この話題で記事を書いている。
何度も同じ話題で、同じような内容の記事を書くほど、印象に残っているということだ。
比丘とは、すでに出家者なのだから、一般社会とは異なった価値観の中を生きる者である。
これぞ本来の出家生活なのではないかと感じた瞬間だ。
出家は出家の本分を生きればよい。
日本の社会では、到底叶わぬことがらであろうし、批難や批判をかうことかと思う。
もちろん、長い日本の仏教の歴史の中で変容して来たことに対して、批判を加えるつもりは毛頭ない。
しかしながら、タイへ渡るまで長らく日本仏教を学んできた者として、これが本来の出家者のあるべき姿なのではないかと、心の底から腑に落ちたこともまた事実だ。
私は、日本の僧侶ではないが、学生時代の一時期をとある大寺院で住み込みの小僧“もどき”の立場として過ごさせていただいた。
大変貴重な学びをさせていただいたと同時に、どこか腑に落ちない何かを感じたのは、こういうことへの疑問だったのではないだろうか。
私は、タイの出家生活の在り方が好きだ。
タイの出家者が社会との関わりを全く断っているのかというとそうではなく、一線を守りつつも、大変上手く調和しているのである。
批判をいただくことを覚悟で書かせていただくと、日本では、本来の意味での出家生活はわからない。
出家するということの深い意味も意義も絶対にわからない。
日本の仏教は、大乗仏教なのだからわからなくてもいいのだという論理は、私は全く当てはまらないように思う。
現在の中国も、台湾も、韓国も、チベットも出家者がいる大乗仏教ではないか。
崩れてしまった日本の仏教に生命を吹き込むにはどうしたらよいのだろうか。
それは、今も答えを出せないでままでいる。
(『出家者の年末年始』)
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