タイの瞑想指導は、全般的に非常に冷淡だ。
この感じ方は、多分に日本人的感覚によるものなのかもしれない。
とはいえ、指導や助言とは、時に厳しく、時に突き放す。
そのなかに優しさがあるというものだ。
こちらとしては、瞑想の状況が進展したと思って報告したつもりが、
「ふむ、わかりました。」
の一言で終わってしまったのでは、なんだか少し味気ない。
ところが、そのようなことなど日常茶飯事なのである。
なかにはちょっとした変化に嬉々として瞑想の報告をする者もいる。
そのような場合は、そもそもが嬉々としていること自体がすでにいけない。
常に冷静に自己の状態を知り、常に観察しているというのが修行者のあるべき姿だ。
嬉々として、心を躍らせている状態自体を観察していないといけないのである。
瞑想実践上なんの足しにもならないような報告やなんら意味をなさない報告に対しては、
「あぁ、そうですか。」
の一言で済まされてしまう。
報告者の側としては、どこか拍子抜けしてしまう感があるというのが本音のところだ。
やってみたいと申し出れば「やってみろ」、変えてみたいと申し出れば「変えてみろ」、やめたいと申し出れば「やめてみるがいい」と、このような調子で回答が返って来る。
瞑想実践上、余程の重要事項であったり、余程やってはいけないことがらに触れていない限り、制止されたり、禁止をされたりされることはないのだ。
要するに道を踏み外していない限り、実践者本人の取り組みに委ねられているということである。
一見すると、どこか気の抜けた指導のようにも感じられるのであるが、実は、そうではない。
それは、ごくごく表面しか見ていない。
指導者は、非常によくその実践者を見ている。
それとなく、瞑想実践中の様子を見られていることもある。
後日、何らかの機会に触れられたり、注意をされたりするのだ。
また、こうとも言えるのかもしれない。
指導者からの指導がどことなくつれないというか、思いやりがなさそうに感じられるのは、瞑想上重要ではないことがらであると。
それほど重要ではないことがらに対しては、真剣に取り合ってくれない。
特に実践者の「学び」の機会を奪ってしまうような回答も絶対にしない。
実践者本人が実際に課題にぶつかり、自分の力で学びとり、自ら道を見い出し、答えを導き出すべき問題に対しても、非常に簡略な助言しかいただけない。
実践者の側は、出家であろうとも、在家であろうとも、修行者なのだから、常に学びの姿勢でもって臨まなければならない。
指導者の側は、実践者の段階をよく見極めて、「智慧」の眼でもって指導に当たらなければならず、ここは指導者の側の力量でもあるとも言えるだろう。
タイの瞑想指導は、全般的に少し冷たく聞こえることがある。
それは、瞑想上不要なことへは、必要以上に立ち入らないし、かつ重要なことがらはしっかりと実践者自身の力で学びとらせるという指導の姿勢の現れである。
タイの瞑想指導者の多くは、そうした見極めの“眼”を持ち、「智慧」の“眼”でもって指導される優れた先生が多い。
全てを優しく教えていただける方がいいだろうか。
厳しく本当の意味での力を育てていただける方がいいだろうか。
それは、瞑想実践者本人が感じ取り、決めることだろう。
(『瞑想指導はとても冷淡』)
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