ブッダの境地を目指したい。
私は、果たして悟れるのだろうか?
この問いは、仏教徒として瞑想を実践している者であれば、誰もが抱いたことがあるのではないだろうか。
少なくとも、私にはそうした問いが常にあった。
実は、私は、学生の頃からそのような問いを抱いていた。
私には悟り得る能力があるのかどうかという疑念というか、果たして私は悟ることができるのだろうかという疑問だ。
そこで、悟りを開くことができるのだということを立証するために、大乗仏教の経典や論書から論証したのが私の卒業論文であった。
仏教が究極的に目指しているところは、言うまでもなく、悟りであり、輪廻からの解脱である。
それは、ブッダの一生がそうであったことからも明らかなことである。
ところが、ブッダのように今生(今の人生)で悟りに至ることができるとは限らない。
条件付きで可能であったとしても、今生で“必ず”悟りに至ることができるといったことは、どの経典、どの論書を探しても記されてはいない。
そもそもが死んだら必ず誰もが「成仏する」(悟りを得る)といったことは、仏教のうえからはあり得ないことだ。
さて、タイの仏教では、条件が揃えば、今生においても阿羅漢になる(悟りに至る)ことができる可能性があるとされている。
しかし、大多数の者は、おおよそ今生で悟れるとは考えてはいない。
一瞬、それは、仏教の教えに反するもののように感じられるのだが、実は、今生で悟りに至ることのみが仏教の目的ではないので、矛盾するところではない。
仏教を実践する目的は、悟りに向かって自己の心の境涯を上げていくという一言に尽きるのではないだろうか。
それは、仏教の学問、瞑想、全ての実践において目的とするところであり、全て心の境涯を上げていくことへと繋がるものである。
タイの仏教には、天界へ生まれることを願うという考えが比較的強く見られる。
今生でたくさんの善き徳を積み、より善き境涯である天界へと生まれることを願うというものである。
実際に、タイのある瞑想指導書(※1)には、瞑想の実践で得られる善い結果として、
『将来、天界へ行くことが約束された者となる』
『7年間実践を続け、五力(信・精進・念・定・慧)が強まれば、現世でアラハン(阿羅漢)、もしくはアナーカーミー(不還)となる』
という記述があり、阿羅漢(=解脱を得る)となることができる可能性を否定していないのと同時に、瞑想を実践して、心を磨いたその功徳によって天界へと生まれることができるのだと説明されている。
このことからも、悟りに向かって自己の心の境涯を上げていくことが仏教実践の目的であることが明確に理解することができる。
すなわち、たとえ天界へ生まれることを目指したとしても、それは心の境涯を磨いていることに他ならず、仏教の目的から外れるものではないということがわかる。
仏道修行の目的は、悟りを得ることに他ならないのだが、自己の心の境涯を上げていくこと、すなわち心を磨き、育てていくことであると言える。
ブッダが悟り得たように、今生で悟りを得ることができなければ意味がないと、かつての私は考えていたわけであるが、決してそういうわけではない。
少しずつ、少しずつ、心を育てていくところに瞑想修行の大きな意味があるのである。
(『私は悟れるのか?~瞑想修行で目指すべきこと~』)
※1、参考文献
『ウィパッサナー瞑想・修習の導き ウィウェーク・アーソム ウィパッサナー瞑想センター』刊(日本語版)2002年 2頁より引用。一部加筆。
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