「タイで出家してきた人のその後の人生が知りたいと思いました。」
このように言葉をかけられることがよくある。
大きく期待を裏切ってしまうのかもしれないが・・・私は、いたって普通の生活をしている。
これといって特別な生き方をしているわけではないし、禁欲的な生活を送っているわけでもない。
怒りもするし、落ち込みもする。
喜びもするし、悲しみもする。
全くもって素晴らしい人格であるわけではない。
しかし、タイへ行って出家までしてきた人物とは、一体どのような人物なのか?と思われるようなのだ。
私の場合は・・・幼少の頃から仏教に興味を持ってきて、大学で仏教を専門的に学ぶ機会に恵まれた。
紆余曲折あったものの、その流れのうえにあるものなので、ごく自然な成り行きだったと思っている。
しかし、普通に考えればわざわざタイまで行って出家するという選択には至らないわけで、当然と言えば当然の疑問なのかもしれない。
私の家族でさえも、私がどうしてそういった考えに至ったのかということが理解できないという。
仏教に興味を持ったが故の、また自己の探究しようと思ったが故の筋道なのであるから、他者には到底理解の及ばない範疇のものであると思う。
そこは、家族であったとしても所詮は他者だ。
理解できない範疇があるのは“お互いさま”である。
さて、タイで出家経験のある日本人というのは、実は、結構たくさんいらっしゃる。
私がタイにいた当時も、長く比丘を続けていらっしゃる方々も含めて13人の日本人比丘がいらっしゃった。
ご存知の通り、タイの仏教は出家と還俗の出入りが比較的容易であるため、私が知らない情報やごく短期間の一時出家者もいるかと思うので、この数字は正確なものではない。
そうした方々がタイでの出家で何を学び、何を得たのか・・・・それは、出家の目的も、出家した動機も人それぞれに違うので、当然、その学びや得たものも人によって全く違うため、一括りにはできないだろう。
私がタイで得た学びや生き方、感じたことやつかんできたことなどは、折に触れてブログに綴っている。
なかでも、最近、特に深く感じていることは、「還俗後の学びの方が大きい」ということだ。
ああ、そうかと思うこと。
これは、そういうことだったのかと感じること。
そのようなことがたくさんあるのだ。
そればかりではない。
より自然に、そしてより力まずに生きることができるようになったと感じている。
皮肉にも、出家していた当時よりも、今の日常生活のなかでのほうが、より深く仏教の学びを味わっているのである。
困難な出来事や苦しい場面に出くわすと、さらに深い学びが得られるのだ。
出家の生き方、特にテーラワーダ仏教での出家の生き方というものは、ごく簡単にひとことで表現をするとすれば、「精神生活に専念する生き方」であり、さらには「瞑想実践に専念する生き方」であると言えるのではないかと思う。
であるから、出家中は、自己の持つ欲望の制御であったり、自身が想い描いているようにうまく瞑想が進まないことに対する感情の制御であったり・・・そうしたことがらに深く苦悩した日々であったと記憶している。
(今ももちろんそうした苦悩はあるのであるが・・・。)
還俗後には、3年間の出家生活と帰国後の日本での生活との“ギャップ”に大いに苦しめられることになった。
ギャップに苦しむ中で、瞑想を捨て去ってしまい、忘れ去っていた時期もあった。
しかし、ある時、瞑想を捨て去ってしまっては、私の学びの全てを捨て去ってしまうことに等しいと思い直したのである。
学びは、「0」か「100」かの二者択一では決してない。
「100」のうちの「1」でも、「10」でも、たとえほんの少しであっても学んだことがあれば、それは立派な学びである。
振り返ってみると、そこからが私の再スタートであり、少しだけものごとの見方が変わった瞬間であった。
生きていれば必ずさまざまな苦しみや困難に出会う。
苦しみに出会ったその時、困難に出会ったその時・・・どのように捉え、どのように選択し、どのように行動していくのか、ということが問われるのである。
仏教の学びは、日を追うごとに出家していた当時よりも、はっきりと実感することができるようになってきたようにも感じている。
様々な場面で、様々な価値基準となり、様々な判断基準となりながら、私の中にしっかりと生きているのだということが自覚できるようになってきたのだ。
その「学び」を具体的な言葉として表現することは、大変困難である。
適切に表現することができない。
ただひとつだけ具体的な言葉として表現できるものがあるとすれば、「心をおだやかに保つこと」と「最善を生きる」ということであろうか。
これは、私が今までにさまざまな悩みや苦しみのなかを遍歴してきた中で、最終的に行きついた答えである。
私と直接ご縁のあった方々には、よくお伝えをさせていただいていることであるのだが、耳に残っている方もいらっしゃるかもしれない。
どうして出家している時にもっともっと実践できなかったのかと悔やまれるところだ。
どうしてもっと学びを深めて、どうしてもっと早くこうした視点を身につけることができなかったのだろうか・・・。
そのように思うことがしばしばある。
しかし、出家の身であったとしても、在家の身であったとてしても、その人にとって悩みを越えるべき時というのは、どこにいても変わらないのではないかと思うに至った。
すなわち、“機が熟す”時は、たまたま出家の身であることもあるだろうし、たまたま在家の身であることもあるだろうということである。
出家者としてその壁を越えることになるのか、在家者としてその壁を越えることになるのかの違いなのではないか・・・私はそのように感じている。
仏教とは、一生かけて実践していくだけの大きな価値があるものだなとつくづくと思う。
(『日常生活での学び』)
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