タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/10/05

お坊さんがいない場所

<この記事は、2010年5月17日に掲載いたしました記事『お坊さんがいない場所』に編集を加えて新たに記事として掲載したものです。>


タイの出家生活は、日本での生活と比較すると非常に窮屈に思えるようなことが多々ある。

しかし、それらは、タイ社会の中ではごくごく常識的なことであり、出家者としてやってはいけないとされていることがらである。

一言で言うならば、在家の人と同じ生活をしていたのではいけないということであり、常に一般の社会の人達から尊敬されるような生活や立ち居振る舞いをしていなければならないということを意味している。

それゆえに、出家者としてやってはならない行為、さらには望ましくない行為や好ましくない行為など、種々の“制限”が生じてくるわけである。

ともすると、戒や律に基づいたタイの出家生活は、宗教的立場に基づいた生活というものにあまり馴染のない日本人からすると少々想像し難い世界なのかもしれないと思う。



タイの町や村を歩くと、あちらこちらで黄衣をまとった比丘達の姿と出会うことができる。

タイを旅した人にとって、「嗚呼、敬虔な仏教国にやって来たのだ。」ということを実感し、感動する瞬間であろう。


ところが・・・

夜になると、町中であれだけ頻繁に見かけた比丘達の姿が、ぱったりと見かけなくなってしまう。

どこへ行っても比丘達の姿がない・・・このことにお気づきの方はどのくらいいらっしゃるだろうか。


そう、タイでは、夜間に比丘の姿を見ることはないのだ。

タイでは、比丘や沙弥達は原則として夜間にお寺の外へ出かけてはならないことになっている。

すなわち、夜間はお寺の中で過ごさなければならないのだ。

何らかの所用で外泊する際にも、招待された場合を除いては、お寺で宿泊をしなければならない。

したがって、比丘達が夜の町や夜のお店へと姿を現すなどというようなことはないというわけなのである。

思えばご尤もなお話で、果たして出家した者が夜の町に何の用事があるというのだろうか。



~ タイ国政府観光庁発行の小冊子
『チェンマイ』 より ~



バンコクやチェンマイなどの大都市には、大きなデパートがある。

バンコクに“伊勢丹”があるということは、多くのガイドブックに掲載されており、日本人が広く知るところとなっている。

日本と同じく近代的なビルの中に洒落た店舗が入るデパートでの買い物は、やはりタイの人達にとっても楽しみのひとつとなっている。

こうしたデパートへも、原則として比丘達は立ち入ってはいけないことになっている。

ゆえにデパートの中でも、町の中ではあれだけ頻繁に見かけた比丘達の姿を見かけることはないのである。


どうして駄目なのだと不思議に思う人がいるかもしれないが、よくよく考えていただきたい。

要するに、比丘とは出家をした者であり、すでに在俗で生活する者ではない。

在家での生活を捨てた者であり、修行に専念する者である。

出家生活に必要のないもの、修行生活に必要のないものは極力遠避けよということである。


銀行もまた比丘がいない場所のひとつである。

もう説明を加えるまでもないだろう。

比丘はお金を所持してはならないからだ。

よって、お金を持って比丘が銀行へ出入りする姿というものを目にすることはないのである。

そもそも、お金を所持することができない比丘が銀行に用事があるはずがないのであって、お金を預けているという景色自体が奇妙な景色なのだ。


通常、比丘個人の必要な物品は、お寺が面倒をみるか、在家の者が用意するというのが一般的である。

また、お寺の金銭管理や寺院運営全般に関しては、在家の専属の者が管理するというのが通例となっている。

日本で言えば“総代さん”といったところだろうか。


もうひとつ。

比丘は、自転車やバイク、車などの乗り物に乗ることができない。

乗り物に“乗せてもらう”ことはできるので、厳密に言えば“運転することができない”ということになる。

それゆえに、タイでは、

「お坊さんが自転車を運転している姿」
「お坊さんがバイクを運転している姿」
「お坊さんが車を運転している姿」

を見ることはないのだ。

比丘の移動手段は、歩くことだけである。

しかし、時には長距離の移動が必要なこともある。

そういった際には、在家の者が比丘を目的地まで乗せていくことになる。

お寺には、大抵そのお寺専属の在家の運転手をかかえていることが多く、その在家の者が目的地まで比丘達を乗せて行く。

比丘にとっては、なんとも窮屈な生活に思えるかもしれないが、修行のために必要なのかどうかという視点で考えてみるならば、そのほとんどが必要のないことばかりで、納得せざるを得ないところだろう。



朝の托鉢風景 ~ タイの絵葉書より ~
タイでは、町や村のあちらこちらで比丘や沙弥達と出会うことができる。
比丘や沙弥達は、生活の中に溶け込んだごくごくありふれた日常の風景なのだ。 



自由に行動することができず、生活に制限があるということを在家の側もよく理解をしているからこそ、在家の人々達が快く車やバイクに乗せてくれたり、自ら送迎を申し出てくれたりするのである。

私も何度もこうした場面に出会った。

その度に日本人の私としては、わざわざ私のために送迎してくれるとは、なんとも申し訳のない限りで、身が縮むほどの気持ちになったものである。

しかし、それは相手の積徳行為(徳を積む行い)であり、仏教サンガたる出家者への敬意と善意と親しみの現れなのであるから、その申し出を受け取る側も快く受けておくべきなのだ。

すなわち、出家者の側は、相手に気持ちよく徳を積ませてあげるというのがその務めでもあるのだ。


こうした視点でもってタイの“日常生活”を眺めてみると、ここに挙げた他にも「お坊さんがいない場所」というのはたくさんあるだろう。


もし、あなたがタイへ行かれた際には、そうした視点でタイの風景を眺めてみるのも興味深いのではないだろうか。

あるいは、もし、あなたがタイで出家するようなご縁に恵まれた際には、よくよく気をつけるようにしたい点のひとつであるかと私は思う。


タイでは、仏道を歩む者に対して応援し、支援をする土壌があり、仏道を歩む者に対して最上の敬意がはらわれる。

仏教サンガは、在家者からの支援で成り立っているのであり、在家者からの支援がなければ出家者の生活は成立せず、修行生活(瞑想実践や学問)に専念できる生活基盤も崩壊してしまう。

一般社会の側から見て尊敬されるような立ち居振る舞いをしなければならないということであり、だからこそ一般社会の側が出家者を修行生活に専念させてくれているのだ。

さらに言えば、修行生活に“専念せよ”ということでもあるだろう。

一般社会の側も出家者の側も、双方の自覚と理解の上に成り立っているのである。


ブッダ以来の「出家」生活が今も脈々と受け継がれ、しっかりと生きているのだ。



※この記事は、私がタイで直接教わったことや直接体験した出来事を基に記述しています。

※この記事は、2010年5月17日に掲載いたしました記事『お坊さんがいない場所』に編集を加えて新たに掲載したものです。



(『お坊さんがいない場所』)





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