タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2013/02/10

女性の出家

上座仏教において女性の僧、つまり比丘尼というものは存在しない。


それは、長い上座仏教の歴史の中で、比丘尼教団の伝統が途絶えてしまったためである。


女性が出家し、比丘尼となるには、戒律では、女性は女性の師僧から戒を受けなければならないとされている。


しかし、比丘尼が存在しなくなってしまったために、女性は女性の師僧から戒を受けることができなくなってしまった。


ゆえに、上座仏教において女性が出家をして比丘尼となることができなくなってしまったのである。



比丘尼はいないが、タイにも「メーチー」という女性で出家生活を送っている人達がいる。


「メーチー」は「尼さん」と訳されることがあるが、実は僧侶ではなく、“尼さん”ではない。


正しくはメーチーとは、「熱心な女性信者」あるいは「熱心な女性の在家信者」である。



しかしながら、メーチーは、剃髪し、白い衣を着て、寺の中で生活を送っており、おおむねその姿勢は比丘に準じている。


それなのになぜ出家者として認められないのだろうか?


それは先述の通り、正式な出家の戒律を受けていないからである。


それゆえに、メーチー達はあくまでも寺に住む熱心な「在家信者」という位置づけなのだ。



在家者であるので、寺の中においては、戒律で比丘が携わることを禁じられている作務を担当することが多い。



たとえば、寺の厨房を担当したりといったような作務だ。


そのような存在ではあるが、やはり出家者であるともいえる。


寺の勤行なども比丘達と同じくする。


瞑想も比丘達と同じく懸命に励む。


また、比丘と同じく、部屋も与えられる。


ただし、比丘と同じ空間(敷地、領域)で過ごすことはなく、メーチーはメーチーの過ごすエリアがあり、明確に区分されている。



一方で、出家者(比丘尼)とは見なされていないので、托鉢に出ることはない。


(まれに厳格な修行寺などでは、メーチーも托鉢に出ることがある。)


メーチーは、在家者から布施を受けるのではなく、比丘に対して布施をする立場である。



女性がメーチーとなることは、善き行いではあっても、男性の出家のように奨励される行為であると一般的には考えられていない。


タイでは、常識的に出家は男性がするものだと考えられているためである。


それでも、メーチーを志す者は確かにいるのだ。



タイでは、このメーチーという生き方が最も僧に近い存在であり、女性における出家の生き方であるといえる。


その意味では、「メーチー」に対する「尼さん」という訳語は正しい。


女性であっても、出家に近い形で寺の中で生活をすることが可能となっている。



近年、タイでは瞑想が盛んであるということは、他の記事でも紹介させていただいている通りである。


メーチーにはならなくとも、数日間、数週間、数カ月間・・・と、一定期間を寺で過ごしていく女性も多く存在するし、瞑想に励む女性達も多くいる。



さらに、女性信者による活動も盛んなようで、女性の修行者グループも存在し、その拠点もいくつか存在する。


タイでも、一般的には女性のほうが信心深い。



それぞれの思いで、それぞれの課題を抱き、ひと時を寺で過ごす。


その眼差しは男性よりも真剣な思いを感じる瞬間がある。



寺には、メーチー以外にもたくさんの在家の女性信者達が住み込んでいる。


メーチーという形ではなくとも、一般の女性信者として寺で過ごすことも可能だ。


毎日寺へ通う者、定期的に寺へ通う者、寺は女性にとってもやはり心のよりどころとなっているのだ。



メーチーや女性信者については、あまり話題にされることが少ないが、メーチーや女性信者達の存在を忘れてはならないし、比丘やサーマネーン(沙彌・見習い僧・少年僧)達以外の人達の存在もあるのがタイの寺である。



様々な人々からタイの寺は成り立っているのである。

 

 

 

(『女性の出家』)




6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

日本人女性でも、瞑想人生を真剣に送りたければ、10年を超える長期間をタイでメーチーとして送ることは可能ですか?

ただメーチーは出家ではないので仏教修学ビザを取得できませんか?

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログを閲覧いただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

メーチーであっても、長期間の滞在は可能です。また、おそらく仏教修学ビザの取得も可能であると思われます。

すでに数年間タイに滞在しているという日本人メーチーと出会ったことがあります。私の記憶が正しければ、1年単位でビザ更新していると言っていたかと記憶しています。観光ビザは3カ月更新ですから、おそらく仏教修学ビザのことであると思います。

もう一点、実は、私がタイ入国後に初めて仏教修学ビザを取得した時は、まだ出家者ではなく在家者でした。在家者であっても、きちんとした仏教修学を証明する文書があればビザ取得が可能です。私の場合は、幸運にも住職のすすめで取得することができました。

以上より、日本人女性であってもメーチーとして長期間タイに滞在することは可能で、在家者(メーチー)であっても仏教修学ビザの取得は可能です。

ただし、仏教修学ビザの取得には、寺院の証明書(住職による書類=滞在先の寺院の理解と承諾、滞在目的の証明)が必要なはずです。
ですから、ビザ取得に関する書類に詳しい人がいる寺院かビザ取得に慣れた寺院などで出家をされるのであれば全く問題はありませんが、そうでなければあらかじめできる限りの情報を収集されておくことをおすすめいたします。

ビザの取得は、その時の情勢などによって非常に流動的な側面がありますので、その点くれぐれもご注意ください。

今後ともよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

ありがとうございました。
日本でもほんの少しずつテーラワーダのことが分かるようになり、うれしく思います。

匿名 さんのコメント...

タイを舞台にした小説を書いている者です。
日本人でメーチーになった方は、どのような理由からでしょうか?
日本では女性でも出家できますが、あえてメーチーになった経緯について、大変興味を持っております。

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。ご返信が遅れまして申し訳ございません。

日本人女性がタイでメーチーとなった理由ですが、私が出会ったある日本人メーチーは『私は真理を求めたいと思った。気づきの瞑想を学ぶためにメーチーとなりました。』と言っていました。また、タイのお寺での生活はどうですかと尋ねたところ『私は師匠から「あなたは、三宝と結婚をしたのですよ」と言われました。こんな励ましの言葉はありません。』と答えられたのを記憶していますが、それ以上のことは聞いておりません。おそらく様々な心の変遷があったのでしょう。

タイのメーチー達がどのような理由でメーチーになったのかは、やはりそれぞれの理由があることかと思いますが、お金であったり、人間関係であったり、複雑な家庭環境であったり・・・と、人生の何らかの問題、しかも比較的強烈な出来事と出会ったことがきっかけとなっている場合が多いようです。これは、日本もタイも同じかと思います。
また、比較的中年から高齢の女性が多いように見受けられます。余生は静かなところで過ごしたいという思いからでしょうか。

もちろん純粋に仏法を学びたいという方もいらっしゃることでしょう。

ピックアップして詳しく調べた訳ではありませんので、この程度しかお伝えできなくて申し訳ございません。少し古い書籍ですが『ブッダ大いなる旅路② 篤き信仰の風景 南伝仏教』(NHK出版)の中にタイのメーチーについて特集した記事があります。ある女性が寺に入った経緯などが紹介されています。安価で購入もできるはずですのでご参考にされてください。また、タイ仏教のおおまかな外郭についても知ることができる書籍です。

今後ともよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

ご丁寧なご回答をいただき、誠にありがとうございました。

インターネット上でメーチーと呼ばれる方々について調べているうちに、こちらのホームページに辿り着きました。

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わたしの知人の若いお坊さんのお母様は、浄土真宗の日本人の尼僧として得度されました。
息子さんが二歳の頃のことだったそうです。
しかし、出家した理由は、息子さんにも決して話したがらないとのことでした。

目下、わたしはその若いお坊さんをモデルにした小説を書いております。
お母様が出家した理由については、「創作してください」とのことでした。

最も重要な部分ですので、困っていたところ、「タイに行ってメーチーになった」という設定に思い至り、
いろいろと調べている途中でございます。

いずれ、タイへ行って取材しなければ、と考えております。
てく様が、日本人のメーチーにお会いしたのは、どの寺院でしたでしょうか?
日本人女性でメーチーになられた方は、他にもいらっしゃるのでしょうか?

不躾な質問ばかりで、大変恐縮です。どうぞよろしくお願い申し上げます。


P.S.

わたし自身、一度ならず得度しようと考えたことがありましたが、
おそらくご縁がなかったのでしょう・・・一介の信仰者として、今に至っております。

ただ、凡俗な人間ですが、仏教をテーマにした小説を書き続けようと決心した次第です。