タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/10/15

どうしても嫌ならやめてしまえばいい。

「瞑想することが辛くて堪らないんです。」

「瞑想することが嫌いなんです、苦しいんです。」


しばしばこのようなお声を聴くことがある。

瞑想の実践に励まれている方の多くは、大なり小なりこうしたご経験をお持ちの方も多いのではないだろうか。

むしろ「瞑想することが楽しくて楽しくて堪らないんです。」「瞑想することが好きで好きで堪らないんです。」といった方のほうが少ないのではないだろうか。

とても共感できるお声ではある。


さて、瞑想することが嫌で嫌で堪らないという人は、どのように対処すればよいのだろうか。

私は、それほどまでに瞑想が嫌だというのであれば、やめてしまうことを提案してみたいと思う。


“やめてしまえばいい”という対処方法に驚かれただろうか・・・。


本当に瞑想をやめてしまってもいいのですか?

そんなことを言ってしまってもいいのですか?


こうしたお声が聞こえてきそうである。

自己の限りない欲望に流されながらの生活は、もちろん望ましいことではない。

また、悪い習慣をつけてしまうような行為・行動も望ましいことではないということも言うまでもないことだ。

さらには、恒常的に怠惰な生活を送るというのも良いことではない。

もちろん“程度問題”で、瞑想がどの程度苦痛なのかということにもよるだろう。

しかし、嫌で嫌で堪らないような瞑想であるのならば、少なくとも現時点においては、まだ瞑想に取り組むという段階にはないという事なのかもしれないと私は思う。

あるいは、その人にとっては、まだ必要のないものだとも言えるのではないだろうか。


辛い辛い、苦しい苦しい・・・瞑想とは、多少の苦痛を伴うものだ。

なぜならば、今までの自分の習慣にないことに取り組んでいるのだから。

その苦痛が、一定の度合いを越えているようであれば、それは相当な苦痛に違いないし、精神的にも良くはない。

かえって悪影響を及ぼすことすらあるだろう。



『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より



どうしても嫌ならやめてしまえばいい。

これは、私がタイの瞑想指導者や長老方から教わったことではないし、聞いた話でもない。

私自身の経験から感じたことである。


私は、本当にその人が仏教や瞑想を必要としているのであれば、たとえ仏教や瞑想から離れるようなことがあったとしても、それは一時的なもので、必ず再び瞑想へと戻って来るだろうと思っている。

また、その人にとって仏教というものがほんの少しでも腑に落ちているようであれば、頑張らなくともごく自然に戻って来るのではないかとも思っている。

やはりこの道しかないと思えば、力まなくとも戻って来るし、少しずつでもいいから瞑想に近づいてみようかという気にもなってくるはずだと思うのだ。


実は、私自身も一度は瞑想から離れてしまった人間の一人であり、瞑想なんて実践したところでなんの意味もないではないかと思っていた人間の一人である。

だからこそ、こうした気持ちは他人事なのではなく、非常に理解ができる感情なのだ。


私の場合で言えば、実にさまざまな考え方に触れた時期があったのだが、結局のところ、仏教以上に私を納得させてくれるものには出会えなかったし、瞑想以上に心を穏やかにしてくれる具体的な方策には出会うことはできなかった。

完璧にできなくてもいい、毎日取り組まなくてもいい、深い境地に達していなくてもいい、自然にできること、自分にできることを実践してみよう・・・そのように思うようになったのだ。

だからこそ、私は再び瞑想へと戻ってくることができたのである。


私は、たとえほんの少しであったとしても「瞑想に触れた」「仏教に触れた」という善き“きっかけ”が大切だと思っている。

ここをお読みくださっているあなたは、すでに「瞑想」や「仏教」という善き“きっかけ”に触れている。

この善き“きっかけ”がいつか必ず大きく育ち、成長し、開花するのではないかと思う。

凡夫である私の立場からは、あくまでも開花するだろうという“期待”をするしか術がないわけであるが、育てるか育てないか、開花させるのか開花させないのかは「あなた次第」である。

それは、今、触れたこの善き“きっかけ”を開花しやすいようにしていくのか、していかないのか、すなわちどのように育てていくのかという姿勢にかかっているのだ。


瞑想を必要としていない人にも勧めて、仏教へと向かわせるのがつとめであり、慈悲の心なのではないかという声も聞こえてきそうである。

しかし、その人が必要としていなかったり、さらには拒絶しているようであるのであれば、残念ながらそれ以上を望むことはできないだろう。

そこもやはり、タイでよく言われた「あなた次第」なのだと思う。


仏教に惹かれたから仏教を学んでいるのではないか。

瞑想に何かの魅力を感じたからこそ、実践してみようかと思ったのではないか。

それ以上意味がないと判断したのであれば、その人にとってはそれまでのご縁であったというだけの話である。



『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より



「機が熟す」という言葉がある。

まさに“機が熟す”ということなのではないだろうかと思う。

あるいは、“機が熟す”のを待つと言ってもいいのかもしれないと思う。


しかし、待っているばかりではいけない。

やはり、機を熟させていこうとする姿勢は必要で、心を育てていこうとする姿勢こそが大切であるかと思う。


果たして瞑想とは、何のために実践するものなのだろうか。

あえて苦しみを生み出すために実践するのではない。

心穏やかに過ごていくための善き習慣をつけるために実践するのである。


ひとつでもふたつでも、善き“きっかけ”は多い方が望ましいし、一分でも一秒でも、心穏やかな時間を過ごした方がいいという結論に至ったからこそ、私は再び瞑想へと戻って来ることができたのである。

それは、実に自然であった。


どうしても嫌ならやめてしまえばいい。


私は、自身の経験からこのように感じているに過ぎない。

もしかすると、違った意見をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない。

私も、瞑想が好きで好きで堪らないというわけではない。

毎日長時間の瞑想に取り組んでいるわけでもない。

聖人君子のような清らかな生活を送っているわけでもない。

しかし、仏教以上に私を納得させてくれるものはなかったし、瞑想以上に心を穏やかにさせてくれる手段もまた知らない。


今の私にできることを、できる範囲で、無理することなく実践していくのみである。

また、それしか私にはできない。


瞑想が嫌だというのならば、一度やめてしまってはどうだろうか。

また、違ったものが見えてくるのではないかと思う。


機が熟したその時、ごく自然に瞑想に取り組めるようになっているのではないかと思う。

もしかすると、最終的には仏教や瞑想へは戻って来ないという選択になるのかもしれないが、それはそれで全く構わないことだと私は思う。


瞑想が辛くて堪らない、瞑想が嫌で嫌で堪らないというのは、それだけ真剣に瞑想へ取り組まれてきたということではないか。

誰よりも努力をされた証なのではないか。

そのようなお方が瞑想と無縁であろうはずがない。

きっと機が熟し、再び縁がつながる時が来るに違いない。

とても自然なかたちで。



(『どうしても嫌ならやめてしまえばいい。』)





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