瞑想方法が変われば、その「目的」や「定義」とするものも変わる。
すなわち、瞑想によって、目指すところも、方法も、理論も、全て異なるということである。
瞑想が変われば、同じ『瞑想』と呼ばれているものであっても、全くの別物であると考えてよい。
見た目は、どれも同じであるが、やっていることは全く違うのだ。
意外にも、この事実を知らない人は多い。
致し方のないことだとは思うのだが、近年の瞑想の流行とともに、瞑想と名がつけば、みな同じだと考えるのであろう。
情報が氾濫してるだけに、十分に注意したいとところである。
さて、私が学んだタイにおける瞑想とは、一体、どのようなことを目的としているのであろうか。
いうまでもなく、タイの『瞑想』とは、仏教の『瞑想』に他ならないのであるから、仏教は何を目指したものなのであろうかという問いと同義である。
さて、ある人は、神秘体験を求めて瞑想する人がいる。
またある人は、心の落着きを求めて瞑想する人がいる。
さらにまたある人は、真理の確証を目指して瞑想する人がいる。
あなたは、『瞑想』に何を求めて実践しているだろうか。
それぞれに瞑想に求めるものが異なるのであるから、その目的に応じて『瞑想』の方法を選ぶことになるのが自然であり、その心づもりや姿勢・態度が異なってくるのも当然であろう。
ゆえに、まず目的を明らかにしたうえで、自分は何に取り組んでいくのかを明確にしておく必要がある。
仏教の瞑想修習の目的は何なのかといった場合、三相(無常・苦・無我)について疑いようが無くなるまで、徹底的に観察し続けていくということが、明確なテーマであり目的だ。
全てがこのテーマに帰結し、またこのテーマに沿ったように進められていくのである。
逆に言えば、迷った時、戸惑った時、わからなくなった時には、このテーマへと戻れば、自ずと目的がはっきりとして来るし、進むべき道が明確になって来るということである。
瞑想実践のうえで大切なことは、心身におけるその瞬間瞬間の状態に気づくことであるから、ある状態への気づき、つまり「その状態」を“気づき(サティ)”の対象として、瞬間的かつ連続的に知り続けてゆくことであった。
今、その瞬間瞬間の状態を「知るだけ」であるから、その状態に良いも悪いもなく、判断や解釈、分析や批判などは必要ない。
三相(無常・苦・無我)を繰り返し、繰り返し、観察し続けていくことこそが、ヴィパッサナーの瞑想の本質的な部分であり、同時にその目的とするところである。
進むべき方向がわからなくなってしまった時には、たとえどのような場面であったとしても、この“目的”へと立ち返ればよい。
これは、“気づき(サティ)”の実感、体感のない初心者にとっては、理解が難しいことなのかもしれない。
それだけに、瞑想における「気づき」を実感・体感を通じて理解を深めていくことが極めて大切である。
もっとも、これは瞑想を伝える側の力量の問題であるとも言える。
私が瞑想の独学をおすすめしないのは、こういったところにもその理由がある。
ともあれ、瞑想に取り組む限りにおいては、その目的とするところ、その目指すべきところをよく理解し、念頭に置いたうえで取り組んでいくべきであるということを忘れてはならない。
(『『瞑想』の目的は何か?』)
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