近年、瞑想における気づき(サティ)や観察の過程を心理学方面における「メタ認知」であるとして理解される傾向がある。
このことについて、タイで大変お世話になった瞑想の師と意見を交わし、教えを賜る機会を得たので記すこととしたい。
私が日本へ帰国した15年ほど前には、それほど耳にする機会がなかった「メタ認知」という用語であるが、瞑想の広まりとともに、心理学と対比しながら理解される向きがあるようだ。
「メタ認知」とは、“客観的な自己”、“もうひとりの自分”などと形容され、自己を客観的に観て認知することを指す用語である。
このことをよく「自分を俯瞰して観る」であるとか、「鳥の視点で観る」などと説明されることもある。
これは、一見すると瞑想における気づき(サティ)や観察の過程をそのまま説明しているようにも思えるのであるが、実は、大きく異なるもので、「メタ認知」として理解するのは誤った理解である。
似て非なるものであるから、ぜひとも、注意しておきたいところだ。
それでは、瞑想における『観察』と『メタ認知』とは、どのような違いがあるのであろうか?
『メタ認知』を「客観的な自己」や「もうひとりの自分」といった言葉で説明した場合、自分の心の外にもう一人の自分をイメージしたり、自分とは別にもうひとつの視点を想定している。
それだから、「鳥の視点で見る」などとして表現されるわけだ。
ヴィパッサナーの瞑想は、何かをイメージ化したり、何かを概念化したりする方向性のものではない。
むしろ、そのように想定されたものは、真実ではなく、自己が抱いている「妄想」であるとして、明確に見抜いていかなければならないものである。
ヴィパッサナーの瞑想は、断じて概念化を進めるような方向性のものであってはならないのだ。
(あえてイメージしたり、瞑想対象を想定するような瞑想法は、ヴィパッサナーの瞑想には含まれない。)
瞑想における気づき、ないしは観察するという過程は、一般に理解されているような何かを観察して記録をつけていくような、あたかも「鳥の視点に」なって自分の姿を見ていくといったようなものではない。
『観察』という言葉の理解自体が、一般に理解されているものではないということである。
とはいえ、「主」ー「客」のないところに観察はありえないわけであるから、瞑想では『心において心を観る』ことを実践していくものであるという表現が適切だろう。
事実、全ての事象は、心のはたらきなのであって、全ては心の中で起こっていることなのであるから、『心において心を観る』ということ以外にあり得ない。
ヴィパッサナーの瞑想において『観察』という言葉自体を用いるのがふさわしくはないのかもしれない。
しかし、言葉として用いざるを得ないといったところだろう。
『言葉』とはいうのは、あくまでも比喩であり、伝達手段だ。
ゆえに真実そのものを寸分違わずにそのままを言い表わしたものではあり得ないし、またそのようなことは不可能である。
言葉は、その代役であり、方便だ。
その役割以上のものではあり得ないわけで、またその役割以上を持つことができないものでもあり、持たせるべきものでもないのである。
自分自身で実感し、体感しない限り、サティや気づきが何たるか?
そして、己の煩悩の強さも、気づきやサティの働きも、知ることはできないということである。
世間に溢れている平易で耳障りのよい言葉に惑わされてはいけない。
(『瞑想における『気づき』や『観察』と『メタ認知』の違いとは?』)
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