近年、瞑想が非常に盛んである。
そして、テーラワーダ仏教(南伝仏教)への関心が高まりつつある。
大変喜ばしい限りだと思う。
ところが、同時に、瞑想“だけ”が仏教の実践であり、瞑想しない者は仏教に生きる者ではないとする人たちを時々見かけるようになった。
とても熱心なのは良いことではあるが、それは間違いである。
瞑想の実践だけが仏教であるわけではない。
三帰依と五戒で初めて仏教徒となるわけであるが、五戒を守ることが瞑想よりも大切だ。
なぜなら、五戒を守ってこそ瞑想を実践していく環境が整えられるからである。
さらにいえば、五戒を守ろうと努めていくことは、それそのものが瞑想へと通じていくものだからである。
【関連記事】:『瞑想の前に五戒を守ること』
五戒を守る以外にも仏教の実践はたくさんある。
『悪い行いをしない』『善い行いをする』という実践も立派な仏教の実践だ。
少なくともタイでは、そのように理解されている。
例えば、タイでは、困っている人を助けたり、手伝ったりする。
席を譲ったり、車やバイクに乗せてあげたりすることもある。
それらは、すべて善行だ。
ごく身近にあるほんの小さな“善い行い”も、立派な仏教の実践のひとつであり、功徳を積むことができる善い行為であるとされている。
ところが、(特に日本においては)五戒を守ることや善い行いをしたり、悪い行いをしないということも仏教の実践のひとつであるということが忘れられているようだ。
もしかしたら、そうした地道な実践は、実践として物足りないのかもしれない(本来は、実践として物足りない実践などないのであるが・・・)。
確かに、瞑想こそが(瞑想だけが)仏教の実践であると思い込むのは、何か実践したい、何か行動したいという、溢れる熱意の発露に他ならないのだと思う。
しかし、一方で、それはただの思い上がりの慢心に堕してしまうものなのではないだろうか。
仏教の実践は、瞑想だけではない。
日々の生活の中で、善いことを行い、悪いことは為さないという、ごく基本的かつごく身近な実践も立派な仏教の実践のひとつなのであって、それは私たちの身の回りにたくさんあるのである。
善いことを行い、悪いことは行わない。
出来る限り悪いと思われることから離れて、できる限り避けるようにする。
こうして日々、心の境涯を磨いていくのである。
同時に五戒を守り、日々の生活を調えていく。
それでこそはじめて、瞑想に取り組む“土台”ができあがっていくのである。
私は、五戒の順守も完璧ではないし、満足に瞑想も深められない煩悩まみれの身である。
すぐに嘘をつき、これくらいはいいだろうといって盗みをはたらいてしまうこの身ではあるが、いつも五戒を思い、生活の中で自分にできることを実践していくように心がけるようにしている。
誰かの役に立てることや喜んでもらえるような機会があれば、積極的に近づいていき、積極的に行っていこうと心掛けている。
また、少しでも人の心の安らぎにつながるような行いを為していこうと、いつも心掛けている。
まずは、身近な行いからである。
悪い行いはしない。
善い行いをする。
そこからだ。
そして、五戒を守ること、守ろうと努めること。
そこからだろう。
そこを抜きにして瞑想云々と言うのは本末転倒ではないか。
怠惰で不摂生な生活をしているにも関わらず、健康になりたいと言っているようなものだ。
とはいえ、私も煩悩まみれの凡夫である。
身近なことでさえ満足に実践できない私だが、私にできる実践を行っていくしかない。
私には、些細な実践しかできない。
しかし、それが私にとっての仏教実践だと思っている。
【関連記事】:『瞑想の前に五戒を守ること』
(『瞑想だけが仏教の実践なのではない』)
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