タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2020/02/19

【วันนี้วันพระ(ワン・ニー・ワンプラ)】:今日は仏教の日



タイには、おおむね一週間に一度くらいの間隔で「ワンプラ」と呼ばれる日がある。


一般には、「仏日」と訳されているのだが、私は“仏教の日”と説明することにしている。



タイへ行かれたら、ぜひタイのカレンダーを見ていただきたい。


多くのカレンダーには、ときどき仏像のマークや月のマークが入っていることに気がつくだろう。


その日が「ワンプラ」の日だ。



ワンプラとは、どういった日なのかと言えば、お寺へお参りに行ったり、お布施をしたり、お坊さんの説法を聴いたりする。


また、仏教の教えに従って、戒律をよく保って身を慎む日である。


よって、ワンプラの日のお寺には、参拝者が多かったり、朝の托鉢時にはお布施される食べ物がいつもより多かったりする。


人々の生活と深く関わっているのがワンプラという日なのだ。





タイの友達が贈ってくれたもの。
1.8.16.22.が「ワンプラ」の日。
このカレンダーは、月の印であるが、
仏像の印のものもある。





これは、のちに知ったことなのだが、各家庭で朝食を分ける際には、お寺へ持って行く分や朝の托鉢の比丘へお布施する分を一番先に取り分けなければならないのだという。


また、お寺や比丘へお布施するご飯は、朝一番に炊きあがった、一番最初に取り分けたものでなければならないのだという。


つまり、お寺や比丘にお供えをしたり、お布施をするものは、人間が手をつけたものであってはならないということである。



私は、タイ入国後、出家前からお寺で生活をしてきた。


還俗後、親しくなった方のお宅へとお邪魔させていただいたり、泊めていただいたりしたことはあるものの、一般家庭内での慣習をよく知らない。


いくら私を家族同様にお世話してくださった家族であっても、私は、あくまでも“お客様”扱いだからだ。


少し寂しくもあるのだが、それはある意味では当然だろう。


私がその家族へ養子に入ったわけでも、嫁いだわけでもないのだから。



さて、私は、この話を知り、町や村で托鉢に歩き、お布施をされた食べ物は、そうした人々の仏教への真摯な思いがこもったものだったのかと胸が熱くなった。


果たして、日本ではこうした感覚が理解されるのだろうか。


私の祖母の世代では、これと全く同じであったはずだ。


祖母の薫陶を受けている私にとっては、ごく普通のこととして受け取ることができる。



例えば、私が生まれ育った地域では、仏壇にお供えするご飯のことを「お仏飯」、ないしは、親しみを込めて「ご飯さん」と呼ぶ。


タイの慣習と同じく、朝一番の炊きあがったばかりの、誰も箸をつけていないご飯を誰よりも早く仏器に盛り付けてお供えをする。


私たちの朝食はそれからだ。


また、人様からのいただき物やその季節の初物など、人が手をつける前に、まずは仏様にお供えをしなければ、触らせてもらえなかった。


誰よりも、何よりも、仏様が一番。


それが普通だった。



核家族化がすすみ、家族も少人数となった。


毎日ご飯を炊かないこともある。


日によっては、パン食の時もある。


いつしかそうした感覚が失われてしまったのではないだろうか。










還俗後、お寺で仲良くなった先輩比丘の実家に数日泊まらせていただいたことがある。


私が明日の朝、「托鉢のお坊さんにお布施をしたい」と申し出たら、大変喜んだ顔をして、すぐに市場でバナナをひと房買って来てくれた。


それで終わりではなかった。


何をするのかと眺めていると、バナナを一本一本、房からちぎって、ひとつひとつ丁寧に拭いているでないか。


ここまで丁寧にバナナを扱ったことがあっただろうか。



嬉しそうにお布施の準備をしているその横顔が忘れられない。



翌朝、服装を整えて、自宅前で托鉢に歩く比丘たちの列がやって来るのを待つ。


ただボーッと待っているのではない。


両膝を地面について、両手で供物を額に押し頂き、静かに待つのである。


近所の人たちもみなそうしている。



いよいよ比丘や沙弥達がこちらのほうへとやってきた。


昨日買ってきたバナナを一本一本、ひとりひとりの鉢の中へと入れていく。



お布施が終わり、比丘たちの列が通り過ぎるとその場で3回礼拝をして終わる。



ほんの数分のできごとである。


これが村の人たちの一日のはじまりだ。


「ワンプラ」の日でなくとも、これが日常なのだ。



こうした人々が「ワンプラ」の日にはお寺に集い、それぞれの形でたくさんの「徳」を積んでいく。


そして、いつも以上の祈りを込めてさまざまな食べ物をお布施していくのである。


特別な日ではあるけれども、ごく日常的な日であるとも言える。



それが「ワンプラ」という仏教の日だ。



(『【วันนี้วันพระ(ワン・ニー・ワンプラ)】:今日は仏教の日』)





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6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして。
何度かこのブログを訪れて記事を見ていましたが、ここ数週間で通読しました。
落ち着く文章ですし、失敗談とかも書いてあるので、自分が同じように苦しんでいるときにがんばろうと思えますね。
Youtubeの動画も見ました。声がすごくいいですね。
自分も瞑想の習慣をつけようとしています。手動瞑想と呼吸瞑想をしていますが、あまりまだ習慣化できていません。精進します。

匿名 さんのコメント...

追記。
自分もブログをやっております。あまり更新しませんが……。めそさらさんの活動を励みに、ぼくも瞑想を習慣化していきたいと思います。
http://servive.hatenablog.com/

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

習慣化は、とても大切であり、重要なことですね。

私の経験から言えることは、確実に実践が可能だと思われるような、とても小さなことやとても簡単なことを「毎日」継続していくことだと思ってます。一日や二日、あるいは一時的な実践で終わってしまったのでは、あまり意味がありません(もちろん、全く意味がないわけではありませんが)。

ブログ内のことがらが何かのヒントとなったり、お役に立てるようなことがあれば嬉しく思います。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログを拝見させていただきました。

歯を磨いたり、服を着替えたり、そうしたごく自然なかたちで瞑想へも取り組めるようになり、習慣化できるといいですね。そのような自然さは、私も目指すところです。

『特別なことをするために、特別なことをするのではない。 特別なことをするために、普段通りの当たり前のことをするのです。』

イチロー選手の言葉なのだそうです。瞑想は特別なことを目指しているわけではありませんが、この言葉には瞑想にも当てはまるものを感じますので、ここで紹介をさせていただきました。

今後ともよろしくお願いいたします。

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
カレンダーのワンプラーの日付を見ると、ミャンマーのウポーサタの日付と同じなので、
タイのワンプラーは、ミャンマーのウポーサタと同じなのだと思われます。いわゆる「布薩日」ですね。
この日は、ミャンマーでも、お寺に集い、法話を聴いたり、瞑想をしたりして一日を過ごす方が多いよう
です。
瞑想センターでも、ウポーサタの日は法話や瞑想に参加するため、多くの方が集まって賑やかになります。
境内では、お布施の受付や、仏教書の販売なども行われます。
この日に瞑想センターに集まる方の多くは女性(ほとんどおばさま方)なのですが、月4回の井戸端会議を楽しんでいるのではないかと思われる方々も見受けられます。
私見ですが、特別な修行やお布施の日であるとともに、仲間と出会えることを楽しみに集まってくる一種の娯楽的な意味合いのある日でもあるように思われます。
また、この日は、瞑想修行者のインタビューは中止となりますし、一応、掃除もやらなくてよいことになっています(実際は、汚れるので掃除やったりするのですが)。見方によっては、終日瞑想漬けの一日になります。
いずれにしても、ミャンマーの仏教徒にとっても、ある種特別な日になっている感じです。
篤信の方は、この日は八戒を守り、午後の食事は控えたりする方もいらっしゃるようですし。

Ito Masakazu さんのコメント...

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。


一週間に一度、こういった日があるというのは、とてもいいことだと私は思います。タイでは、この日に徹夜で瞑想する修行寺もあり、朝から夜まで、一日中人がたくさんいてとても賑やかです。

お話をしているだけの人・・・確かに、タイにもいますね(笑)。しかし、お寺という場が、心の安らぎとなり、その人にとっての癒しの場となっているのなら、それもまたいいのではないかと思います。タイ人にとって、お寺へ行くことは、ひとつの楽しみでもあるので、確かに娯楽的要素があるでしょう。まさに「信仰」と「観光」とが一体となったような感じです。これもまた、とても理想的だなぁと感じます。

日本で観光というと、100%娯楽ですが、タイ人にとっては違います。お寺へ参拝する喜び、お布施をする喜び、その次に娯楽としての喜びがあります。生活と一体になっていて、とてもいいなと思います。

日本には、こういった日もなければ、こういった感覚もないので、その点はとても残念に感じます。


コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。