タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/02/13

修行か?それとも苦行か?~私の至った結論~

師の指導を成し遂げることができなかったとしても・・・師は、何も言わない。

「こういう結果でした」「結果、こうでした」と、師に報告をすれば、師はただ「そうですか」「ああ、そうでしたか」と、返事をするだけだ。

突き返されることも、破門されることもない。

怒られることもなければ、咎められることもない。


その次、自身がどういう行動を選択するべきなのか。

私は、今から何をするべきなのか。

どうしようと、何をしようと“私次第”なのだ。


・・・結論から言うと、規則正しく生活をしながら、こつこつと瞑想を実践していくという、ごく普通のやり方のほうが私には合っていると思った。

規則正しい生活、すなわち、規則正しく適度に寝て、規則正しく適量を食べて、規則正しく瞑想を実践していく。

そういった、ごく一般的なタイの瞑想実践のスタイルへと切り替えたのであった。

いや・・・そうした実践スタイルへと“戻った”のであった。


極端とも言えるような修行方法・・・断食や眠らない修行を実践したとしても、結局のところ、私はなにひとつ変わらなかったし、なにひとつわからなかった。

しかし、それは実際に実践してみたからこそ言える「学び」であったのかもしれない。


結果がどうであろうとも、全ては、自分から求めていかない限り、何かを示されることはない。

全て自分から求めていかなければならないのである。

私の方から、この先どのようにすべきかを師(瞑想指導者)に問い、教えを請わなければならない。

そのようにして初めて、次の指導を受けることができるのだ。


これは、タイでの修行全般について言えることであるが、修行に決まった課程や時間割、決まったコースなどがあるわけではない。

全てが自分自身に委ねられているのであり、全てが自分一人で歩んでいかなければならない道なのである。

師の方から答えを与えてはくれないし、道を示してもくれない。

疑問に感じたことや自分では答えを出すことができないようなことがらは、自ら進んで師のところへ申し出て、質問し、確認し、解決を図っていかなければならない。

・・・しかしながら、自分勝手な判断をするとしたならば、道を過つことすらあり得る。

全ては自分次第ではあるが、そこはしっかりと肝に銘じておくべきだ。


タイでの修行生活というものは、他人の目があるわけではなく、注意してくれる人もいない。

監視してくれる人も、補佐をしてくれる人も、誰もいない。

ただ一人だ。

ただただ一人で黙々と修行を続けていかなければならないのだ。

「まあ、いいや・・・」と、いった気持ちになったとしても、それはそれで一向に構わない。

そこまで。

それでおしまい。

ただ、それだけの話である。


極端な修行方法を実践して学んだことがあるとすれば、どのような状況下に置かれたとしても煩悩は、少しも減りはしないし、無くなりもしないということだろう。

断食をして、空腹の最中にあろうとも、眠気は容赦なく襲い掛かってくる。

空腹ならば、余計なことを考える余裕など無くなってしまうだろうと思いきや、麗しい女性が目に入って来れば、視線はいとも簡単にそちらへと向かってしまう。

性欲は枯れるどころか、激しく湧き上がってくるばかり。

厳然としてあるのだ。

興味が無くなくなってしまうなどといったことは決してない。


どんな欲望も、決して無くなりはしない。

普段の生活と何ひとつ変わらない。

むしろ、不要な考えや善からぬ考えが増すばかりだと言っても過言ではない。


眠らない修行も同様だ。

眠らない修行をして、性欲を断てるかと言えば、これもまた全くの見当違い。

どんなに眠くても、きちんと空腹になれば、激しい怒りの心もある。

しっかりと性欲だってある。


どんなに厳しく、極端な修行を実践したとしても、内面ががらりと変わるわけではないということである。

煩悩が無くなるわけでも、減るわけでも、悟りに近づけるわけでもない。

腹も立てば、怒りもする。

もし、変わるところがあるとするならば、達成感が得られるか、精神力が鍛えられるか・・・そのようなところだろう。

極端な修行とは・・・自分が納得するのか、納得できないのかの問題だ。


どのようなことも「観る」、ただただ「観る」ことに努める、ただただこつこつとやっていく、ということに行き着くのではないかと思う。


徹底して「観察」していくしかないのだ。


~タイで購入したブッダの伝記『ブッダの生涯』の挿絵より。~


必要以上の食事や必要以上の睡眠は、言うまでもなく単なる欲であり、怠け心である。

適度に食物を摂り、適度に睡眠を摂る。

必要最低限度でありつつも、適度の生活こそが、病むことなく、苦しむことなく、最良の状態で、修行生活を長期的に継続していくことを可能にするものなのだということを肌で感じた。



断食も、眠らない修行も、私の取り組み方が中途半端だったという反省はあるのかもしれない。

もっと徹底してサティをしていけば、結果はもっと違ったのかもしれない。

しかし、私にはこれが限界だった。

断食にしても、眠らない修行にしても、やればやるほどに頭がおかしくなってしまいそうな瞬間すらあった。

もはや、発狂寸前の状態にまで陥ったこともあった。


単なる我慢大会、あるいは単なる自己満足や達成感の享受としてしまってはいけない。

文字通り、それはその時、単なる「苦行」となってしまうのだろう。


私は、総崩れとなった。

だが、この結果が私としての限界だったのだから後悔は一切ない。



私は、この実践が終わったあとも、長らくその森のお寺で過ごした。

ある時、アチャンの随行として、信者さんのところへ一緒に出かける機会があった。

街なかのベンチに腰をかけながら、信者さんが迎えに来るのを待っていた時のことである。

・・・その時、アチャンが私に対してぽつりと言った言葉がとても心に残っている。


「ものごとには段階があるんですよ。
次の段階がありますからね。
あなたは、まだ(私が示した修行を)卒業したわけじゃありませんからね。」


と、笑みを浮かべながら私に言った。

私のことを見ていてくれたような言葉で嬉しくもあり、一方でお前はまだまだだと言われたようで悲しくもあるような、実に意味深長な言葉だった。

アチャンが言わんとする真意は、実のところはわからない。

わからないけれども、私と2人だけの時にぽつりと私に渡されたその言葉。

・・・ふと、歩行瞑想中に倒れてしまった時に、


「(眠らない修行の)歩行瞑想で倒れた人は、あなたが初めてです。」


と言われたことがあったのを思い出した。

やはり、どこか私のことを見ていてくれたように感じる気持ちの方が大きく、どこか励まされた気がして嬉しかったことを憶えている。


いろいろと考え合わせたのち、私の出した結論は・・・私は、私が出家をした北タイの小さな森のお寺へと帰るという決意をしたのであった。

そして、ひたすらやってくる日々の中で、淡々と瞑想に励むことになる・・・。



規則正しく、お寺で定められた日課の中で、自分に合ったペースを守りながら、毎日同じ生活を繰り返し、瞑想実践を積み重ねていく・・・日々こつこつと。

これが私にとって最も良いという結論だった。


お寺での生活、出家の生活、特に瞑想実践は実に孤独だ。

どこへも逃げられない。

誰も助けてくれない。

それが瞑想に他ならない。


いや、それは、瞑想中だけのことではない。

当時を振り返ってこの記事を書いている今、このことは、はっきりと断言できることだ。

修行中であろうとなかろうと、出家であろうとなかろうと、それは何ひとつ変わるものではない。


人生もまた孤独なものであるということ。

そして、どこへも逃げられないものであるということ。


徹底して自分自身を観察していかなければならないのは、出家中であっても、瞑想中であっても、在家での生活の最中であっても、すべては全く同じなのである。

まさに、仏教の実践とは、実生活そのもの、人生そのものであったということである。

そして、それがダンマであったということである。


どんなことも徹底して観察していく。

それは、気が遠くなるほど遥かなる道だ。

ついつい、私なんかには不可能だとあきらめてしまいたくなるほどの遥かなる道である。

しかし、それが、穏やかなる心への唯一の道なのではないかと改めて思うのである。


やらずにはおられなかった・・・。

私にとっては、求道への、修行への、そして悟りへの篤い篤い思いの発露に他ならないものであった。

だが、極端なことを実践する必要はなかった。

私にできることを地道にやっていくしか方法はないし、それが最も自然な生き方なのだと思う。



あなたは、総崩れとなってしまった時、どのような結論を出すだろうか?



《 修行か?それとも苦行か? ・結・ 》



(『修行か?それとも苦行か?~私の至った結論~』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
瞑想内容の報告に対する指導者の対応が、ミャンマーの瞑想センターでの対応に似ていますね。
ミャンマーでも、ある程度経験のある修行者に対しては、手取り足取りといった指導はほとんどされません。あれこれ報告しても、「そうでしたか」「そのまま修行をお続け下さい」くらいです。修行方法が脱線しそうな場合に、端的に指導されたり、アビダンマに沿った説明をしてくれる程度です。迷惑行為でも無い限り咎められることもありませんし、逆に褒めたりといったこともほぼありません。褒めないのは、慢を増長しないようにという配慮かもしれませんし。
タイと同様に、まさに自分次第です。こちらから指導者に対して積極的にアプローチしないと、詳しいことはほとんど教えてくれません(このあたりは指導者にもよるのだとは思いますが)。
自らの実践の中から滲み出てくる疑問などにはきちんと指導してもらえますが、単なる思考実験のような質問には、まったく答えてくれないわけではありませんが、取り合わないような傾向があるように感じています。
すべては自分次第なので、自分が現在どんな立ち位置にいて、どこを目指して修行しているのかを意識していないと、気がついたらあらぬ方向に向かっていたなんてことにもなりかねません。
瞑想修行は、注意していないと、いつのまにか自我というバイアスがかかってしまい、ダンマをはずれて自分にに都合のいい邪道に陥ってしまう危険を常に感じています。
私の場合、指導者との面接は、自らの瞑想修行がダンマからはずれていないかどうかチェックする場としても捉えています。本格的に瞑想修行を志すには、バイアスを修正するためにも指導者は絶対必要なのではないかと思っています。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

自分勝手な判断や先入観というものは、どうしても付きまとってくるものですから、十分に注意が必要ですね。これは、人間の性(さが)だといっても過言ではないのかもしれません。邪見に陥ってしまってはいないか、慢心を増長させてしまってはいないか・・・私も常に気を付けていることです。引っかかることや気になることがあった際には(・・・あっても、なくてもですが)、必ず指導者へ報告することが大切だと思います。

ミャンマーの瞑想センターでの指導方針も似ているのですね。私は、できる限り指導者の方へは何でも報告するようにするなどして、できるだけ話すようにしていました。話すことで自身の反省にもなりますし、学びにもなります。記事にあるお寺の長老とも、たくさんのことを話しました。随行させていただいた時などはたくさんのことが話せたので貴重な機会でした。
私の判断が私にとって最善の選択であると師が判断した時や、特に問題ないだろうと判断された時は、特に何も言われることはありませんでした。しかし、ここぞという時やダンマから外れていることや間違ったことをしている時などは、必ず正してくださいますし、きつく指摘もしてくださいます。

時々、全く自己流の仏教解釈の方を見かけますが、とても残念に思います。瞑想に関しても、気分転換やメンタルヘルスでの実践ならば、特に問題はないのでしょうけれども、独学での瞑想実践は絶対に危険です。師となる方の存在は、非常に大切ですし、ダンマを生きる友の存在というものもとても大切だと常々感じています。

私の場合は、師とは遠く離れているので、できる限り定期的に何らかのかたちで連絡を取るようにしています。また、パーラミー様と同じく、日々、自己を省みると言いますか、自己への戒めは常に大切にしたいと思っています。本当に常に注意していないと、やっぱりバイアスがかかってしまうこともあります。十分に気をつけないといけないなと感じています。常に付きまとってくるものですからね・・・。

とても学びとなるコメントをありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。