すべての地でブッダを想い、悟りを想い、三礼した。
はるかなる道、大いなる道を成就した偉大なる師、ブッダを想い、大地に額ずいた。
海外の生活との落差は想像していたよりも激しかった。
その大半が出家生活だったのだからなおさらかもしれない。
出家生活は、普通の生活とは異なる部分が多い。
たった3年、されど3年である。
出家という特異な空間であったことに加えて、日本とは価値観が大きく異る空間から再び日本の価値観の中へと戻ったのである。
出家生活の中では、ひたすらブッダのことだけを想い、ひたすら悟りのことだけを考えていた。
タイでは、ひたすらブッダのことを想っていればいるほど、悟りのことを考えていればいるほど、周囲の人々からは尊敬される。
わかりやすく表現すると、ブッダや仏教、悟り、瞑想への思い、そしてその姿勢が真摯であればあるほど尊敬される。
また、生活態度がより禁欲的なほど尊敬されるというのがタイの出家の世界である。
しかし、還俗した。
そして、日本へ帰国した。
これからは、日本で日本の「生活」をしていかなければならない。
食べていくために。
生きていくために。
そう、一人で生きていかなければならないのだ。
出家という特異な空間であったことに加えて、日本とは価値観が大きく異る空間から再び日本の価値観の中へと戻ったのである。
出家生活の中では、ひたすらブッダのことだけを想い、ひたすら悟りのことだけを考えていた。
タイでは、ひたすらブッダのことを想っていればいるほど、悟りのことを考えていればいるほど、周囲の人々からは尊敬される。
わかりやすく表現すると、ブッダや仏教、悟り、瞑想への思い、そしてその姿勢が真摯であればあるほど尊敬される。
また、生活態度がより禁欲的なほど尊敬されるというのがタイの出家の世界である。
しかし、還俗した。
そして、日本へ帰国した。
これからは、日本で日本の「生活」をしていかなければならない。
食べていくために。
生きていくために。
そう、一人で生きていかなければならないのだ。
海外から帰国し、その後、普通に生活している人は多い。
別にどうという話ではない。
そんなこと、当然過ぎるほど当然な話ではあるまいか。
出家前の私だって、しっかりと日本で生きていたではないか。
お金を稼ぎ、堂々と町を歩き、しっかりと生活をし、生きていたはずではなかったか。
別にどうという話ではない。
そんなこと、当然過ぎるほど当然な話ではあるまいか。
出家前の私だって、しっかりと日本で生きていたではないか。
お金を稼ぎ、堂々と町を歩き、しっかりと生活をし、生きていたはずではなかったか。
日本に帰国し、再び普通の生活が始まった。
ところが、こんなこともわからないのかということまでわからなくなってしまっていた。
わからない・・・。
右も左もわからない。
ところが、こんなこともわからないのかということまでわからなくなってしまっていた。
わからない・・・。
右も左もわからない。
どうすればよいのかがわからない。
・・・いや、そんなことはないはずだ。
今までは、単に甘えていただけなのかもしれない。
見ようとしてこなかっただけなのかもしれない。
・・・いや、そんなことはないはずだ。
今までは、単に甘えていただけなのかもしれない。
見ようとしてこなかっただけなのかもしれない。
今、単にそれを見ざるを得ないところに来ているだけのことではないのか・・・。
日本の社会の構造は、まずは働くことが前提となっている。
職に就き、お金を稼いでいなければならない。
仕事をして、お金を稼いでいなければ、何もできないと言っても過言ではない。
アパートを借りることもできない。
医者にかかることもできない。
外出することもできない。
靴も買えない、服も買えない。
毎日の食べ物や飲み物さえも買えない・・・すべてがお金なのだ。
いい会社に入って、安定した給料を求める。
両親の言っていたことが今さらながらに納得できた。
お金の問題ではないだろうと親の言葉に反感を抱いた時期もあった。
しかし、日本の社会では、お金がないと生きていけない。
それが現実だ。
「お金を稼ぐ」ことが日本の社会生活の基礎、全ての基盤となっているのが現代日本の社会なのである。
“先立つものが・・・”という表現もあるように、まずは「お金」なのだ。
いや違う、お金など使わなくとも生活できる!
・・・そんな声が聞こえてきそうであるが、はたしてお金を使わずに一日を過ごすことができるだろうか?
容易ではないはずだ。
数日間なら生活できるかもしれない。
しかし、継続的に、そして長期的にとなれば不可能だ。
一日中部屋の中に籠もっていればよい、どこへも行かなければよい、と反論されるかもしれない。
しかし、よく身の回りを見渡してみると、水道の蛇口をひねって水を一口飲んでもお金がかかっている。
トイレへ行って紙を使い、水を流せばそれもお金だ。
電気をつけてもお金。
テレビをつけてもお金。
エアコンをつけてもお金、パソコンを起動させてもお金・・・
身の回りのものすべてにおいてお金がかかっているのだ。
時々、ゼロ円で生活をするというテレビ番組を見かけることがあるが、それは実際には非常に困難だと言えよう。
100パーセント自給自足の生活も、現代社会においては限りなく不可能に近いと言ってもよい。
全てを自分自身で賄っていかなければ生活ができないということである。
つまり、お金がなければ生きていけない・・・それが現代の日本の社会だ。それが現実だ。
お前は阿呆か?
どれだけ甘やかされた育ち方をしてきた奴なのか?
そう思われる方も多いのかもしれない・・・。
普通であれば、誰もが常識的に身につけていることである。
しかし、私はこの時、改めて痛感させられた。
タイの出家者、比丘やサーマネーン(沙彌)達は、
『金銀(お金)の受領より離れる戒を保持する。』
という戒律を守りながら生活を送る。
出家者は、戒律により“原則”として「お金」は持っていない。
自らはできる限りお金から離れることに努め、周囲の者はできる限り出家者にお金から離れた生活をさせるように努める。
お金を保持しないということは、意外なことにそれほど苦痛なことではない。
にぎやかで、華やかで、さまざまな品物が並べられ、売られている町や村の市場を通りかかったとしても、不思議と何も欲しくはならなかった。
なぜならば、はじめからお金を所持しておらず、買うことができないので、全く欲しいという気持ちにはならないからだ。
これほどまでに「欲しい」という思いが薄くなるものなのかと我ながら驚いた。
人間の有する限りない「物欲」から離れるための第一歩だと感じた。
出家者は、ごくわずかの物品を除いて、物を所有することが許されていない。
身の回りには常に少しばかりの物しかない。
いつでもどこへでも移動ができる、すぐにでも一所不在の行脚に励むことができるほどの持ち物しか所持していない。
まさに無一文の生活だ。
出家の世界へも、じわりじわりとお金の足音が近づきつつある現代のタイであるが、それでもそうした出家生活を支援し、応援してくれる土壌があるのがタイの社会である。
なぜならば、それが本来の出家者の姿であり、それが本来の出家者の生き方であるということを社会が知っているからである。
そうした生活を“一時出家”という形で一生に一度は誰もが経験する・・・素晴らしきタイの習慣だと私は思う。
そんな生活から、再び日本の生活へ戻ることは、私にとっては予想以上の衝撃と落差だった。
日本の社会の構造は、まずは働くことが前提となっている。
職に就き、お金を稼いでいなければならない。
仕事をして、お金を稼いでいなければ、何もできないと言っても過言ではない。
アパートを借りることもできない。
医者にかかることもできない。
外出することもできない。
靴も買えない、服も買えない。
毎日の食べ物や飲み物さえも買えない・・・すべてがお金なのだ。
いい会社に入って、安定した給料を求める。
両親の言っていたことが今さらながらに納得できた。
お金の問題ではないだろうと親の言葉に反感を抱いた時期もあった。
しかし、日本の社会では、お金がないと生きていけない。
それが現実だ。
「お金を稼ぐ」ことが日本の社会生活の基礎、全ての基盤となっているのが現代日本の社会なのである。
“先立つものが・・・”という表現もあるように、まずは「お金」なのだ。
いや違う、お金など使わなくとも生活できる!
・・・そんな声が聞こえてきそうであるが、はたしてお金を使わずに一日を過ごすことができるだろうか?
容易ではないはずだ。
数日間なら生活できるかもしれない。
しかし、継続的に、そして長期的にとなれば不可能だ。
一日中部屋の中に籠もっていればよい、どこへも行かなければよい、と反論されるかもしれない。
しかし、よく身の回りを見渡してみると、水道の蛇口をひねって水を一口飲んでもお金がかかっている。
トイレへ行って紙を使い、水を流せばそれもお金だ。
電気をつけてもお金。
テレビをつけてもお金。
エアコンをつけてもお金、パソコンを起動させてもお金・・・
身の回りのものすべてにおいてお金がかかっているのだ。
時々、ゼロ円で生活をするというテレビ番組を見かけることがあるが、それは実際には非常に困難だと言えよう。
100パーセント自給自足の生活も、現代社会においては限りなく不可能に近いと言ってもよい。
全てを自分自身で賄っていかなければ生活ができないということである。
つまり、お金がなければ生きていけない・・・それが現代の日本の社会だ。それが現実だ。
お前は阿呆か?
どれだけ甘やかされた育ち方をしてきた奴なのか?
そう思われる方も多いのかもしれない・・・。
普通であれば、誰もが常識的に身につけていることである。
しかし、私はこの時、改めて痛感させられた。
タイの出家者、比丘やサーマネーン(沙彌)達は、
『金銀(お金)の受領より離れる戒を保持する。』
という戒律を守りながら生活を送る。
出家者は、戒律により“原則”として「お金」は持っていない。
自らはできる限りお金から離れることに努め、周囲の者はできる限り出家者にお金から離れた生活をさせるように努める。
お金を保持しないということは、意外なことにそれほど苦痛なことではない。
にぎやかで、華やかで、さまざまな品物が並べられ、売られている町や村の市場を通りかかったとしても、不思議と何も欲しくはならなかった。
なぜならば、はじめからお金を所持しておらず、買うことができないので、全く欲しいという気持ちにはならないからだ。
これほどまでに「欲しい」という思いが薄くなるものなのかと我ながら驚いた。
人間の有する限りない「物欲」から離れるための第一歩だと感じた。
出家者は、ごくわずかの物品を除いて、物を所有することが許されていない。
身の回りには常に少しばかりの物しかない。
いつでもどこへでも移動ができる、すぐにでも一所不在の行脚に励むことができるほどの持ち物しか所持していない。
まさに無一文の生活だ。
出家の世界へも、じわりじわりとお金の足音が近づきつつある現代のタイであるが、それでもそうした出家生活を支援し、応援してくれる土壌があるのがタイの社会である。
なぜならば、それが本来の出家者の姿であり、それが本来の出家者の生き方であるということを社会が知っているからである。
そうした生活を“一時出家”という形で一生に一度は誰もが経験する・・・素晴らしきタイの習慣だと私は思う。
そんな生活から、再び日本の生活へ戻ることは、私にとっては予想以上の衝撃と落差だった。
仏教への思いがとても強かったぶん、この落差が激しくなってしまったことは、なんとも皮肉に感じた。
(つづく)
『生きねばならぬ3 ~無意味の意味~』
(『生きねばならぬ2 ~お金と生活~』)
(つづく)
『生きねばならぬ3 ~無意味の意味~』
(『生きねばならぬ2 ~お金と生活~』)
2 件のコメント:
前のブログで匿名で書いたものです。
お金がすべての社会というのは、そうでない社会に触れてきた後では相当な衝撃なのでしょうね。
曹洞宗の安泰時が自給自足で檀家を取らず、修行三昧を実践しようとしているらしいですが、それでもやはり維持費をどうするかで苦労されているという話を読んだことがあります。
修行に専念する環境がないというのはなかなか厳しいものですね。
尤も、変なプライドを持たなければ餓死はそうそうしませんし、戦乱もない。昔からすると、今の日本はある意味ではこれ以上ないほど生きやすい理想郷だとも思います。
ですが、残念ながら今の社会の雰囲気はそう感じることを許さないのですよね。
スタンダードからはみ出ると負け組!これもなければあれもなければ負け組だ!と尻を叩かれ叩かれするのが今の社会です。
ブログ主様が感じたわからなさは、そのあたりの息苦しさと現実のお金の問題と双方の問題があるのだろうと思います。
そうしてある程度を手に入れても安心も安定もないところが苦しいですよね。
ブログ主様がどのように諸々の苦を受け入れていったのか、続きを楽しみにしております。
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
「修行に専念する環境」に関しては、仏道修行というよりも“渡世(=お金を稼ぐ)”になってしまっている側面が大きいように思うのは私だけでしょうか。
おっしゃる通り、私も日本はとても恵まれた環境であると思います。しかし、その反面、息苦しさを感じている人もまた多いかと思います。私もそうした息苦しさを感じていた一人です。では、どうしてゆけばいいのかということを私は自分自身に対して常に問い続けています。
このブログでは、日本とタイとの対比の中で、なにかしらのヒントを導きだせたらという思いで自己を振り返りながら書かせていただいています。そのため、更新が非常にスローペースになってしまっています・・・。
毎回とても鋭い視点からのコメントをありがとうございます。心に響くものがあり、非常にうれしく思います。
今後ともよろしくお願い致します。
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