タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/09/03

師の言葉であるのなら ~目標を失った私~ 前編


還俗を決意した理由・・・

それは、父の病のこと。
(関連記事⇒『父の病気1』から)

そして、はるかなる道、大いなる道に圧倒され、負けてしまったこと。

それともうひとつ、まだこのブログ上には書いていないことがある。

それは、ある師の弟子として飛び込みたいと思ったこと。
ある師の弟子として飛び込む・・・すなわち、帰国して日本の僧侶になりたいと思ったことだ。

前回までの記事の中で紹介させていただいている通り、日本の僧侶の世界の実情は、学生の時よりこの目で嫌というほど見てきた。
それゆえ、日本の僧侶となることを選ぶことはなかった。

それでも日本の僧侶になりたいという思いに至ったのは、やはり日本の社会の中においては、最も仏教に近い位置にある“職業”だからだ。

幸か不幸か・・・私は、仏教の他に関心を持てるものがない。
ゆえに日本で生活をしていくのであれば、少しでも仏教に近いところにいたいと思ったのであった。

このままタイで比丘として生きていきたいとも当然のことながら思った。
しかし、父との問題にけじめをつけるためにも日本へ帰国することを選んだ。

そして、日本に帰ったら、日本で“日本のお坊さん”になろう・・・そう思ったのだった。

これで、自分の心にはっきりとけじめをつけることができた。
これで、日本へ帰る目的がはっきりとした。

そう感じた。

病床にある父とともに時を過ごすこと。
そして、尊敬し、お慕い申し上げる師のもとに弟子入りすること。

そう心に決めて還俗を決意したのだった。


弟子になりたいと願った“ある師”とは、以前の記事のなかの「ある師」のことである。
(関連記事⇒『生きねばならぬ3 ~無意味の意味~』


まだ若かりし頃、私と同じくタイへ渡り、さらにスリランカで修行を重ねられた方だ。
唯一、私のタイでの出家を応援してくれた方だ。

私と同じ志を抱いた人。
私と同じ疑問を抱いた人。
私と同じ道を歩んだ人。

そして、私と同じ挫折を味わった人。

師と初めて会った時、今までにはない感覚を感じた。
その場にいるだけで感情が伝わってくるとでも表現したらよいのだろうか。

それは、「感覚」であり、文字や言葉によって表現することは難しい。
これ以上の表現ができないので、その感覚をどうかお察しいただきたい。

このような出会いを経験されたことのある方はいらっしゃるだろうか。
少なくとも私は、この時が初めてであった。

こういう人がいたのだ。
こういう出会いがあるのだ。

私は身ぶるいがするほどの思いだった。

師は、とても軽く、そして穏やかな人生を歩んでいる。
今も。

私もそうなりたいと思った。

僧侶となるのであれば、自分が信頼し、自分もそのようになりたいと思える師の弟子となりたい・・・。

迷わずに師のもとへ飛び込みたいと思った。

尊敬し、お慕い申し上げる方。
師弟関係とはそのようなものではないだろうか。


師とは、ひらたく言えば先生のことだ。
先生といえば、学校の先生や習い事の教室の先生・・・・・・
一般の社会生活のなかで出会うことのできる「先生」とはそのくらいだろうか。

しかし、それらは師弟関係と言えるほどの関係ではない。

一般の社会生活のなかでは、「師」と呼べる人との出会いは、もはや稀少なのかもしれない。


タイから日本へ帰って間もなく、帰国の報告を兼ねてそのある師のもとへと向かった。
ところが、予想外の結末となる。

断られたのだ。

正確に言うと、「必要ない。」と言われた。

全ての目標を完全に失ってしまった瞬間だった。

師は、私にこのように言った。


「あなたは、僧侶になどなる必要はありません。
なぜ、タイへ行ったのか、もう一度よく考えてごらんなさい。
なぜ、僧侶になる必要があるのか、もっと深く考えてごらんなさい。

あなたは、本物を求めてタイへ行った。
本物が何かということを求めるためにタイまで行ったのではありませんでしたか?

これからも、是非とも本物を求めていって欲しい。
そして、これからも、是非とも本物でいて欲しい。
あなたには、最後まで本物であって欲しいのです。

あなたは、自分のすぐ足元に、そしてすぐ隣に仏法があるのだということに気づけるようになりなさい。
仏法は、あなたとともにあるのです。

私が学んだ人は、みな在家の人でした。
私が尊敬する人は、みな在家の人でした。

寺の人間は誰ひとりとしていなかった。

あなたも、そんな本物になって欲しいと思います。」


と。

私は、「はい。」とだけ答えた。

脱力したという表現になるのだろうか。
がっかりしたという感覚でもない。

その時の感情もまた、文字や言葉によって適切に表現することができない・・・。


ともかく、“日本のお坊さん”への道は閉ざされてしまった。

・・・他の場所でなればよいではないか。

そのように思われるかもしれない。
しかし、この師のもとで僧侶となるからこそ、私にとって意味があるのだ。

他の選択肢は私の中にはない。

信頼し、お慕い申し上げる師。
そして、自分が飛び込みたいと思った師が言うのである。

師の言葉に全く異論はない。
異論などあろうはずがない。

「はい。」以外の答えもまた私の中にはないのだ。

たとえ、師のこの言葉にだまされたとしても後悔はない。
この先の目標がなくなろうとも、路頭に迷うことになろうとも後悔はない。

それだけ私が信頼し、お慕い申し上げた方が言うのだから。

ただただ、師の言われた通りに歩んでゆくだけだ。
自分が師の言う「本物」になることを信じて、これからを歩んでゆくだけだ。

しかしながら、師の言葉に対して「はい。」と答えはしたものの、本当に私は“本物”になることができるのだろうか・・・次に目指すべき具体的な“形”を無くしてしまった私には不安しかない。


この先、何をして、どのように生きていけばよいのか・・・

全くわからない。

まさに苦海だ。

その後、そうした私の心の状態を反映した道を歩むことになったのは、すでに記事の中で紹介をさせていただいている通りである。

決して楽しい経験ではない。
できれば、経験したくないことばかりだ。

全く自分がわからなくなった。

生きている意味もわからなかった。
生きる気力もなかった。

仏教のことなど考える余裕すら無かった。

辛かった。

行き先がない旅路ほど不安なものはないではないか。

足元が見えぬ道を歩むことほど恐ろしいことはないではないか!



⇒後編へ続く。
『師の言葉であるのなら ~目標を失った私~ 後編 』



(『師の言葉であるのなら ~目標を失った私~ 前編 』)



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