なかでも、森のお寺などの修行寺は、特に瞑想実践を旨とした生活環境だ。
このように表現すると、どこか厳しい僧院生活を想像されるのかもしれない。
しかし、タイのお寺での生活は、一般的に日本人が思い描くような“厳しさ”というものはなく、誰にでも開かれたものだ。
タイの仏教の非常に良いところである。
とは言っても、長期的な出家や腰を据えた瞑想実践を志そうとする場合、ある意味での「覚悟」が必要であると私は思う。
どのような「覚悟」なのかと言えば、自己の心の動きを徹底的に観る覚悟だ。
修行寺、特に森のお寺というのは、本当に何もない。
適切な表現ではないのかもしれないが、何もないからこそ、嫌になったとしても逃げることができない環境である。
すなわち、「瞑想」しかやることがない、「瞑想」せざるを得ない環境なのだ。
ある意味での覚悟とは、こうした環境に耐える覚悟はあるだろうか?ということである。
1週間や1ヵ月程度であれば、なんら問題はないだろう。
しかし、これが3ヵ月、半年、1年となればどうだろうか。
ごく短い期間であれば、それはそれは驚きと感動の世界だ。
味わったことのない世界の体験、実に貴重な時間と空間であることと思う。
だが、ある程度の一定期間をこうした環境下で過ごすとなれば、それなりに辛くもなる時期が必ず訪れるだろう。
もっとも、感じ方は人によってさまざまだと思うので、一概には言えないことではあるが。
私の場合であれば、実にさまざまな感情が噴き出してきた。
止め処なく様々な感情が溢れ出し、どうしようもなくなってしまうということもあった。
時には、とてつもなく大きな感情の波に襲われることもあった。
容易に観察できる程度の、ごく日常的な感情の波とは比較にならない程のものだ。
瞑想が自分が思っているようには進まず、眠気と疲れもあったのだろうか、発狂しそうになったこともあった。
来る日も、来る日も、毎日同じ、実に単調な日々。
こんな瞑想ばかりの日々に意味がわからなくなって嫌になってくることすらあった。
・・・今、振り返ってみれば、これ程までに瞑想に適した理想的な環境の中にいて、実に羨ましくなってしまうような悩みにも思えるのだが、その最中にいる時の苦しみは半端なものではない。
~タイで購入したブッダの伝記『ブッダの生涯』の挿絵より~ 怒りや感情の濁流の様子を擬人化するならば、まさにこのような様子になるのだろうか。 |
特に、私が還俗を決めてから襲ってきた感情の波は、尋常ではなかった。
この時のことは、今でもよく覚えている。
嗚呼・・・やっぱり私は比丘を続けていたいんだという思い。
しかし、還俗して帰国しなければならないのだという自己の置かれた条件への無力感と恨みにも近い非常に複雑な気持ち。
自分が思っていたようには瞑想が進まなかったという敗北感と悔しさ。
どうして私は、これ程までに瞑想の能力がないのだろうかという落胆と怒りの感情。
・・・とても言葉で表現できるものではない。
私は、これらの感情に呑み込まれ、なす術がなかった。
まるで気が狂ってしまったのではないかとも思う程であったのだが、そうした感情もまた私の感情だ。
それらをただありのままに観なければならなかった。
全くもって恥ずかしく思う。
修行寺であればあるほど、瞑想するしかない環境が揃う。
いや、瞑想に適した環境が整うと表現するべきか。
在家生活よりも、受ける刺激がはるかに少ない空間での生活となるのだ。
それゆえに、自然に自分自身の感情の動きを観ざるを得なくなってくる。
先述の通り、在家生活よりも、より密に、より直接的に、自分自身を観ることになるのだから、気分が穏やかになることもあるだろうけれども、時には余計につらくなってしまうことさえあり得るのである。
そのような意味で、覚悟が必要であると思うし、ある意味では過酷なのではないかとも思うのだ。
過酷であるがどうしようもない。
静かな瞑想実践中心の生活を送っていると、必ず誰のところへも多かれ少なかれ、こうした感情の大波小波が襲ってくるからだ。
これは、瞑想を実践していくうえでは、言ってみれば、ごくごく日常のこととなるので、そうした時に適切に対処ができるだけの瞑想の知識と瞑想の力とをつけておく必要がある。
もっとも、対処できようができまいが、適切な瞑想指導者のもとで瞑想実践を行うことが望ましい。
瞑想とは、誰のためでもない、私自身のための実践だ。
周囲に誰がいよいうとも、師匠や瞑想指導者がいようとも、最終的には、私一人で取り組んでいかねばならないものだ。
これは、今この瞬間から、「悟り」に至るまで続く、遥かなる、そして大いなる道なのである。
それでは、在家生活ではどうであろうか。
在家生活から出家生活に入ったわけであるが、再び在家生活に戻ってみると、やはり少しだけ観点が変化していた。
どのような変化かと言えば、それは“生き方”とでも表現をしたらいいのであろうか。
それについては、おいおい記事の中で言及していくとして、話題を戻したい。
直接的に表現をするならば、在家生活は、瞑想に専念できる環境であるとは言い難い。
“他に何もやることがない”どころか、やらなければならないことばかりである。
また、出家生活と比較をしてみると、いわゆる“刺激”がはるかに多い。
お金や生活のことも考えねばならないだろう。
物品を売買する機会も多いだろう。
社会に出れば、さまざまな人と接触する機会もあるだろう。
他者との接触があれば、感情の動きもさらに活発になるだろう。
思い通りにならないこと、怒りにさいなまれること、大きな悩みに苦しめられることもあるだろう。
在家生活では、こうしたさまざまな「欲」がかき立てられやすい。
そのような環境のなかを生きていかなければならないのが在家生活だと言えるのではないだろうか。
しかし、こうした「欲」がかき立てられるのは、出家も在家も何ら変わるところがないのではないかと私は思っている。
環境というものは、もちろん非常に大切なものではあるが、一方で環境を変えたからと言って、がらりと変わるものではない。
根本的な部分を観ていかなければ、どこに身を置いたとしても同じことだ。
その作業というか、実践は、出家も在家も同じなのではないかと私は思うのだ。
感情の動きを観ていくことに変わりはない。
今、自身が置かれている環境の中で、どのように実践していくかの問題だ。
たとえ、在家の身であったとしても、やはり今この瞬間から、「悟り」に至るまで続く、遥かなる、そして大いなる道なのである。
ともすると、出家をすれば、全ての問題が解決すると考えてしまってはいないだろうか。
たとえ、出家をしたとしても、自分の思い通りになることばかりではないし、どうしようもない怒りやどうしようもない感情の濁流に流される。
平たく表現するならば、出家をしたとしても、自己の感情とつき合っていかなければならないということだ。
出家であれ、在家であれ、普通に生活をしていれば、感情の動きはあるものだ。
他者と触れたり、仕事に励んだりしていて、全く感情の動きがないという者は果たしているだろうか。
怒りを覚えないという者はいるだろうか。
比丘が表に出すことはいけないこととされてはいるが、内面では比丘であってもやはり喜怒哀楽の感情はある。
在家であればなおさらだ。
引き籠ったり、一人きりになればよいのだろうか?
否。
引き籠ったところで、感情の動きからは逃れることはできない。
たった一人になったとしても、感情の動きを観ていかなければならない。
ただ流されるがままに感情の濁流に吞み込まれていくのか、感情の濁流を観ていくのかのいずれかだと思う。
ひとえに、人間関係とは、「他者との関係」であるとともに「自己との関係」だ。
引き籠ったとしても、一人きりになったとしても、問題は何ひとつ解決されるものではない。
~タイの絵葉書より~ 人は暮らしを立てていくための仕事とともに、生きていかなければならない。 自活の放棄が出家であるのならば、自活していくのが在家である。 |
私は怒りっぽい。
「怒り」の感情は、今も私の大きな課題のひとつだ。
周囲には、怒りなどとは無縁の生活を送っているかのように見える人もおられる。
実に、人間は不平等なものだと思うこともしばしばだ。
結論から言えば、やはり怒りという感情を徹底して観るしかないのだろう。
怒りというものを怒りであると知ることである。
今の私は、これ以上の対処方法を知らないし、これ以上の対処方法はないと思っている。
これこそが怒りの感情とのうまい付き合い方であると思っている。
日本では、自分の力でお金を稼いで生きていかなければならない。
どんなに苦しくとも、生きていかねばならないのだ。
喜び、怒り、嫉妬、落ち込み、疑い・・・
思い通りにならないことばかり、そしてさらに怒りや嫉妬の感情が増幅する。
怒涛の如く押し寄せてくるさまざまな刺激のなかで、さまざまな感情がみるみるうちに膨れ上がっていく。
そのようななかで、私はどこへ向かっていて、何をしようとしているのかを見失ってしまうことすらある。
それも「感情」だ。
そうした感情を如何に対処していくかだ。
感情とは、認識作用の複合体であると仏教では考える。
その複合体を“心”であると捉えたり、“私”であると捉えているに過ぎない。
出家は出家の辛さというものがあると思うし、在家は在家の辛さというものがあるとは思うが、最終的には、出家も在家も全く変わらないのではないかと私は思う。
どのような環境に身を置いていたとしても、感情の波は、怒涛の如く押し寄せてくる。
これも「観る」しかないのだと思う。
より穏やかに過ごしたいのであれば、やるしかない作業だ。
ありのままを観るという作業、すなわち瞑想とは、形ある直接的な利益をすぐに産み出すものではなく、時間をかけてものごとの見方を育てていくものであり、人生の土台となるものなのではないかと思っている。
そんなことで激しい感情の濁流が収まるはずなどないだろうと言いたくもなるのだが、怒りをはじめ、さまざまな感情を無意識に爆発させてしまってはそれまでのお話だ。
爆発させてしまってはそれまで・・・私は、いつもこう言い聞かせている。
言い聞かせることで、自分自身のわからなかった感情に気づくこともでき、より客観的になることができる。
少しずつ、ほんの少しずつしか身につけていくことしかできない私だ・・・。
性格とは、ものごとの見方であり、いわばその人の人生の癖だとも言えるだろう。
できる限り、悪い癖はつけ続けないようにしていきたいと思う。
(『出家生活、そして在家生活 ~怒りと感情の濁流のなかで~』)
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