年末年始。
あれやこれやとなかなか忙しい。
私は、学生時代にとある大寺院にお手伝いとして住み込みで働かせていただいていた。
日本のお寺は、実に忙しい。
さまざまな法要の準備に、正月の飾りつけ。
鏡餅の準備に初詣の準備と大忙しだ。
この季節を迎えると、そうした学生時代の懐かしい思い出と、季節ごとの伝統ある日本の行事に思いを馳せるのである。
同時に、タイの森の修行寺での出家生活を懐かしく思い出すのだ。
タイのお寺は、日本のお寺とは全くの正反対である。
なかでもタイの修行寺では、年末年始の行事は、これといってない。
普段と違うことと言えば、1月1日の朝の托鉢の時は、いつもよりもたくさんの食べ物がお布施されることくらいである。
そう、タイ人のお正月は、比丘へのお布施で始まるのだ。
一般社会における“お正月”は、タイも日本もそれほど変わらない。
やはり、年末年始は一種のイベントであり、お祭り騒ぎである。
ところが、お寺は違う。
特に森の修行寺での生活は、一般社会との生活とは全く異なるのである。
いくつかの仏教行事はあるものの、基本的に行事は何もない。
あるとしても、準備を含む行事全般は、在家の信者たちによってすすめられることが多い。
それでは、比丘たちは、何をするのかと言えば、お経を読み、説法をし、一般在家の人たちからのお布施の品物を受け取り、お布施された食べ物を食するのみ。
日本の生活からは、なかなか想像しずらい景色なのかもしれないが、これがインド以来の仏教における「出家生活」の本来の形なのだと思う。
要するに、出家者の本分は何なのかということである。
言うまでもなく、瞑想修行であり、悟りを求めることだ。
おそらくブッダの時代は、もっともっとシンプルな出家生活であっただろうし、さまざまな行事や法要などもなかっただろう。
一度、出家をしたならば、ただひたすらブッダの教えに耳を傾け、ただひたすら悟りを求めて、静かな場所で瞑想に励んだに違いない。
日本の季節感あふれる伝統行事も大切だ。
後世にその心を守り伝えていかなければならないと思う。
一方で、忙しいこの季節になると、年末も年始も、いつも何ひとつ変わることなく、淡々と時が流れ、来る日も来る日も瞑想に明け暮れたタイのお寺での日々を思い出すのである。
さらに、それは、ブッダの時代の出家生活の断片を伝えているものであるのかと思うと、ついつい胸が熱くなってくるのである。
嗚呼、ブッダ。
こうして時が過ぎてゆく。
時間を無駄に過ごさぬよう、この人生を無駄にせぬよう精進しなければならない。
(『森の修行寺の年末年始』)
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