タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

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2018/12/09

歩く瞑想


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◇ ◇ ◇ ◇ ◇



歩く瞑想・・・日本ではあまり馴染がない。


私は、小さな瞑想会を開催させていただいている。


その際に「歩く瞑想というのがあるんですよ。」とお伝えをさせていただくと大抵の方は、「えぇ?歩く瞑想??」と驚かれるか、「何ですか?それ??」といった顔をされる。



「瞑想」と言えば、“じっと動かずに坐って行うもの”。


そうした固定観念があるからだろう。


歩きながら瞑想をするなどというのは、多くの人にとっては想像のできないことだ。


私も、上座仏教の瞑想を知る以前はそうであった。



歩く瞑想とは、「気づき」や「観察」に重点を置く上座仏教ならではの瞑想だ。


ただ単に歩いているだけではないということは、言うまでもない。


“歩いている”ということをしっかりと「気づき」、「観察」をしながら歩くのである。


それであってこそはじめて「歩く瞑想」となる。





ある森のお寺で「歩く瞑想」を実践している私。
夜間も、ただひたすらに歩き続けた。
森のお寺には、こうした「歩く瞑想」を
実践するための細長い建物がある。





ある森のお寺で瞑想修行をしていた時、徹夜でひたすら歩き続けたことがあった。


・・・私は、眠気にめっぽう弱い。


そうした瞑想上の悩みを瞑想指導者である長老比丘へ相談をしたことがあった。



もしも、坐っているのがつらかったり、あまりにも眠気に襲われるようであるのなら、ひたすら歩く瞑想を実践しても良いのですよ。」



と、指導された。




坐る瞑想と歩く瞑想との割合を工夫して、歩くのに疲れてきたら、少し坐って瞑想をするといった具合に実践するようにしたのだ。



そして、



「坐って瞑想していて居眠ってしまうようであれば、ただひたすら歩く瞑想を実践するようにしなさい。歩きながらサティを保つようにしなさい。」



続けてそのように指導していただいた。



以降、ひたすら歩く瞑想を実践するようにした。



歩く瞑想であっても観察することに徹するのは、なかなか難しい。



・・・もっとも、観察することに徹する難しさは、坐る瞑想であったとしても、歩く瞑想であったとしても全く同じことだ。




歩く瞑想は、坐る瞑想よりも比較的楽に取り組める。


ところが、坐る瞑想よりも早く疲れてしまうのだ。


さらには、歩いているのが辛くなってきたり、嫌になってくるのだ。


しかし、私は、それでも、歩き続けた。


ただひたすら歩く瞑想を続けた。









瞑想上のこととは関係のないエピソードがひとつある。


ある時、歩く瞑想に専念し過ぎたためか、日に日に膝が痛むようになってしまった。


そのことを瞑想指導者である長老比丘へ報告し、相談をしてみると・・・



「コンクリートの上を歩いていると、膝を痛めてしまうことがある。土の上を歩くようにしてみなさい。」



と、そのように言われたのだ。


言われた通り、境内の中で舗装されていない土の上で歩く瞑想を実践してみると、なんと膝の痛みはいとも簡単に消えてしまった。


コンクリートで舗装された上を歩くと、たとえ自分では“衝撃”であるとは感じていなかったとしても、膝にそれ相応の衝撃を受けているらしい。


しかし、土の上を歩くのであれば、膝に受ける衝撃は、より自然でより柔らかな衝撃となるのだそうだ。


やはり、どんなに小さなことであっても瞑想指導者へと報告し、どんなことであっても相談するべきだと痛感したエピソードであった。




これは、今になってつくづくと感じていることである。


歩く瞑想の実践は、実生活上でのサティ、すなわち日常生活の中で気づきを保つことや観察するといったことに非常に役立っているように感じている。


実生活では、動作を伴っていることがほとんどである。


そうしたなかでどのように動いていて、どのように感じていて、どのように気持ちが動いているのか・・・これらのことを観察していくには、“歩く瞑想”を実践している時の状況を重ね合わせてみるのがよいと思う。


なぜなら、「歩く」という動作を伴っている歩く瞑想を実践している時の状態とさまざまな「動作」を伴っている実生活とは、より近い状態にあると言えるからだ。



日常生活の中でどのように穏やかな心を保っていくのか。


そして、どのように気づきと観察を保っていくのか。



・・・これは、在家者として一般社会の中で生きていく今の私の課題だ。



穏やかな心が実現できてはじめて穏やかな生活となる。


穏やかな生活が実現できてはじめて冷静で客観的なものの見方ができる。



穏やかな心の実現こそが全ての「土台」である。



私は、こうした部分をもっとも大切にしている。


それは、タイでの瞑想実践からの学びであり、特に歩く瞑想からの学びが大きかったのではないかと今更ながらに感じているのである。



(『歩く瞑想』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
歩行瞑想って、簡単そうで、実は結構難しいというか、奥が深いなと痛感します。
足の動きを気づいていくのですが、どれだけ細かく気づいてもまだまだ足りない感が拭えません。実際、歩行瞑想していると新たな気づきがあったりするんですね。瞑想を始めた頃は、座禅よりも歩行瞑想は楽だなと思っていたのですが、今では、座禅よりも歩行瞑想の方が難しく感じます(無論、座禅も難しいのですが)。
それに、歩行瞑想をしていると、日頃の歩行の歪みというか、癖(靴底の片減などとして現れるやつ)といったフィジカルな問題点も表に現れてきて、普段からあまり良い歩行をしていないということを思い知らされたりもします。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

まさにおっしゃる通りだと思います。歩く瞑想は、結構難しいですよね。一見すると、全然違うもののように感じますが、「瞑想」という意味では、歩く瞑想であっても、坐る瞑想であっても全く同じです。そして、双方それぞれに深いものがあります。

しかし、日本では瞑想に取り組まれている方であっても、それほど重視している方が少ないような印象を受けますがいかがでしょうか。

歩いていても眠気が極限までくると居眠ってしまいます(私は実際にありました)。一方で、坐る瞑想のほうが時間が早く過ぎるように感じたり、疲れにくく感じたり、気持ちよく感じるのは、知らない間にサティが無くなっていたり、睡眠に入ってしまっているからだと言われたこともあります。上手く両者の配分を考えながら、また上手く組み合わせながら実践していくことが大切ですね。

普段の日常生活の中ででも、ひとつひとつの動作を確認しながら、おおざっぱなサティでいいので、気づきを保っていくことができるように常に心掛けていきたいと思います。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。