タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/04/24

揺れる心1 ~仏教と価値観~


タイ人にとって出家とは、言うまでもなく『功徳』を積むことだ。
そして、それは同時に親孝行な行いとなる。

両親も家族もともに喜ぶ。

両親が喜ぶ行為であるからこそ親孝行な行いであると言えるだろう。


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ゆえに、タイでは「出家」=「親孝行」であると言ってもよい。

誰からも尊ばれ、誰からも称賛される。
両親にとって喜びとなるばかりでなく、徳ともなる。

出家をするということは、非常に尊敬される行為でもあるのだ。

それがタイにおける出家だ。

一時出家ではなく、親にとって大切な息子の生涯にわたる出家ということであれば話は少し別であるが。


タイでは、広大な功徳となり、親孝行となる出家。

日本ではどうか。
出家をして両親は喜ぶだろうか。
広大な功徳となるだろうか。

残念ながら、そうではないようだ。

もしかすると、私の知り得ぬところで両親の広大な功徳となるのかもしれない。

しかし、親孝行どころか、親不孝ともなりかねない。

両親が喜ぶ行為であるからこそ親孝行であると言えるのであれば、両親が喜ばない行為であればそれは親孝行とは言えない。

親不孝にほかならない。

つまり、タイと日本とでは真逆というわけだ。


私は、タイで出会った諸師・諸先輩方に病気の父を残して出家しており、日本へ帰るべきかどうかについて助言とアドバイスを求めた。

ある瞑想指導者の方からは、


「あなたの思いは伝わっています。慈悲の瞑想を行いなさい。両親の徳となります。きっと両親は喜ぶことでしょう。それがあなたにできる親孝行です。」


との助言をいただいた。


その通りだ。

慈悲の瞑想とは、自己の心を穏やかにするだけでなく、私自身から周囲へも広がってゆくものだ。

出家とは自己の功徳であるばかりでなく、親や家族の功徳となり、喜びとなる。

だが、それは両親がタイで暮らすタイ人であったのならば、その思いは共有できたのかもしれない。


またある長老比丘の方からは、


「日本へ帰ったとしてもなんの問題もない。またタイへ来たらいい。そして、またタイで出家をしたらいい。」


と、そんなに悩むなと言わんばかりに明るく答えていただいた。
真摯に助言をいただいたその言葉はとても嬉しかった。

ところが、どこかしっくりとこない。

本当に嬉しい言葉ではあるが、心の中に立ち込める霧を晴らしてくれるものではなかった。


またある日本人の方からはこういった助言をいただいた。


「あなたの思いはとても理解できます。しかし、身の回りのことはしっかりと整理をしてきたほうがいい。お父様のこともしかりです。このまま出家生活を続けたとしても、あなた自身のことですから全く構いませんが、この先、おそらく一生背負うことになると思いますよ。」


と。

この言葉には、心を揺らされた。

どこかすっと腑に落ちたような、しっくりときたような・・・この言葉に納得をさせられたのだ。


こう助言してくれたのは日本人だった。

日本人としての感覚が私の心を動かしてくれたのであろうか。

私は、タイ人にはなりきれなかった。

いや、私の両親はタイ人ではなく、日本で生活をしている日本人だ。
私がタイ人の感覚になりきったとしても、相手は日本の価値観をもった日本人だ。

価値観が違う。

私がタイ人で、両親もタイ人であったのならば、今の私の行動は親孝行である。
しかし、私の両親からすれば、私は単なる身勝手な人間に過ぎない。


価値観とは一体何なのだろうか。


自己の考え、自己の思い、自己の価値観。

本当に正しいのだろうか。

どこまで行っても所詮は井の中の蛙にしか過ぎないのかもしれないが・・・。


仏教とは何か。


仏教とは、普遍的な真理であるはずだ。

それは「いつでも」「どこでも」「誰にでも」当てはまるもののはずだ。
時代、国や地域、人種や性別の違いよって変わるものではないはずだ。

仏教とは何か。

それは、自己の価値観を超えることである。
自分勝手な思い込みや偏ったものの見方、そして自己の執着から離れること、それが仏教である。

全ての仏教の修行や学問は、これらの偏った、捕らわれたものの見方から離れんがためのトレーニングなのだ。

自己の『物差し』を捨て去るための訓練なのだ。


私のこうした悩みも、所詮は自己の価値観の中に過ぎない。

果たしてこれは単なる自己の価値観か。
ただの思い込みに過ぎないのだろうか。

自分勝手な思い込みと偏ったものの見方にしか過ぎないのであろうか。

私の心は揺れに揺れた。


真実の姿を見る・・・

瞑想によって、こうした心の動揺を単なる「心の動揺である」と観なければならないのであろう。
どこまでも冷静に、どこまでも冷徹に、そしてどこまでも客観的に揺れいている「自己」を観なければならないのだろう。


本来ならば。



(つづく 『揺れる心2 ~還俗へ~』



(『揺れる心1 ~仏教と価値観~』)



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1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

すみませんが質問させて頂きました。