私は、常に心穏やかでありたいと思っている。
なぜなら、私は、まずは穏やかになることが瞑想の第一歩であると思うからである。
さまざまな葛藤や挫折を繰り返してきたなかで、そう考えるに至ったのだ。
瞑想と日常生活とは、一体のもの、あるいは両輪でなければならないと思う。
私は、還俗後、日本での生活の中で「瞑想」と「それ以外の生活の場」との“差”に悩んできた。
瞑想をしている時と、瞑想実践から離れた日常生活との「差」だ。
すなわち、瞑想と日常生活とが大きくかけ離れてしまうのである。
どうしても、どこか両者は全く関係のないもののように感じられてしまうのであった。
瞑想をしたからと言って、日常生活がどのように変わるのであろうか?
私は、長らくそのことで悩んできた。
瞑想の「効果」を期待することは、実は、あまり良いことではない。
期待をしている自分の姿にこそ気づいていなければならない。
その「期待」も心の動きである。
期待をすることで「執着」となり、苦しみとなってしまう。
期待をすることで「執着」となり、苦しみとなってしまう。
そもそも、瞑想の実践は、効果を得るために実践するものではない。
瞑想の効果とは、あくまでも悟りに至るまでの瞑想実践課程における単なる「副産物」にしか過ぎないものだからだ。
この点は、道を踏み外してしまいやすい事柄でもあるので、よく理解をしておきたい。
タイの森の修行寺(森林僧院)では、日常生活そのものを瞑想実践としていくように指導される。
(※瞑想の流派によって異なる。)
瞑想中“だけ”観察に努めるという姿勢であっては駄目だというわけである。
瞑想中はもちろんのこと、歩いている時も、座っている時も、横になっている時も、掃除をしている時も、食事をしている時も、托鉢に出ている時も・・・常に観察、常に気づきを保つように心掛けること。
そのように指導をされるのだが、実は、これらは、なかなか難しいことだ。
気がつけば、心はどこかを彷徨っている。
知らず知らずのうちに感情のなかへと巻き込まれてしまっている。
なぜなら、私達の日常生活の中では、そもそもそうした習慣がない。
瞑想と生活とがかけ離れてしまうのは、出家中であっても同じだ。
気がつけば、心はどこかを彷徨っているし、すぐに感情のなかへと巻き込まれてしまう。
しかし、出家生活というのは、戒律の生活でもあるので、かけ離れてしまうといっても大きく踏み外してしまう危険性は回避できるようになっている。
だから、まだ大丈夫な範囲内だとも言える。
(大丈夫だといっても、相当の精神力を要するのだが・・・)
ところが、在家者として一般社会のなかで生活をしていくとなるとどうだろうか。
余程、気づきを保つことができていなければ、元の自分に戻ってしまう。
自分の持っている「心の癖」の方へと流されて行ってしまうのだ。
あれほど懸命に瞑想実践へ時間を費やし、取り組んできたのにも関わらず、いとも簡単に、すぐ元の状態へと戻ってしまうのだから、虚しいとしか言いようがない。
さらには、どんどんと瞑想から遠ざかってしまうのだから情けないではないか。
それぞれの生活の中で、それぞれの仕事の中で、瞑想を実践していかなければならない。
私は、なんとか瞑想とともにありたいと考えた。
私の生活の中において難しいことは削って、削って、削った結果、「いかに穏やかな心を保つのか」というところに辿り着いた。
ほんの小さな「おだやかさ」であって構わない。
瞑想においては、副産物にしか過ぎない「効果」ではあるけれども、日常生活の中にあっては、心が穏やかであることを求めてもよいのではないか。
そこがなければ、次の一歩はないと思う。
だからこそ、私は、穏やかな心を大切にしているし、まずは穏やかな心を保つように心がけている。
今では、森の修行寺での指導は、私の日本での生活の指針となるものとなっているように感じている。
森のお寺での教えは、今もずっと私の中で生き続けている。
(『私が「おだやかなこころ」を大切にしている理由』)
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