タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/05/09

瞑想が深まれば、日常の生活も穏やかになるのでしょうか?


「瞑想が深まれば、日常の生活も穏やかになるのでしょうか?」


実は、最もよく質問されることのひとつ。


もっとも、これは瞑想実践者としては、とても気になる点であり、ごく素朴な疑問だ。



結論から言えば、『瞑想が深まれば、日常の生活も穏やかになる。』である。



生死輪廻や“苦しみ”の問題を解決するために瞑想するということも、もちろんあるのだが、なんと言っても、日々の生活を穏やかに送りたいということがその根底にあるのではないかと思う。


間違っても、心を乱したり、不快な気分になるために瞑想を実践してるのではないはずだ。


それは、瞑想実践者の誰もが同じなのではないかと思うし、誰もが感じるところなのではないかと思う。










それでは、なぜ『瞑想が深まれば、日常の生活も穏やかになる。』ということが言えるのだろうか?



それは、瞑想実践を続けることによって、少しずつ“ものごとの見方”や“感じ方”が変わって来るからである。


ものごとの見方や感じ方が変わって来ると、“ものごと”に対する「理解の仕方」が変わって来るのである。


すると、周囲にあるさまざまなことが変化してくるのだ。



厳密に言えば、周囲が変化するのではない。


実は、周囲は何も変ってはいない。


「変わったように“見える”」のである。



例えば、身近なところで言えば、人間関係が変化して来ることがある。


また、身の回りに起こる出来事が変化して来たりすることもある。



その結果、日常の生活がより明るいものとなったり、より穏やかなものとなって来る。



見たり、聞いたり、感じ取っているのは、全てが「自分自身」であり、その自分自身の見方がか変化してくることで、見えるものや聞こえるものの理解が変わってくるのだ


その延長線上にあるものが毎日の生活であり、さらには、私の人生そのものとなるのである。










時々、瞑想はとても熱心に実践しているのであるが、一歩瞑想から離れると、どう見ても穏やかそうには見えない人、というのを見かけることがある。


こういったタイプの人をタイの修行寺でも見かけたことを思い出す。



修行はとても熱心に取り組んでいるのであるが、非常に怒りっぽかったり、他者の批判ばかりしている修行者だ。


明らかに他者に対して攻撃的であったり、怒りを露わにしていたりするのは、当の本人としても決して心穏やかではないのではないかと思うのだが、果たしてどうであろうか。


もっとも、これは、私個人の勝手な見方である。


人の幸せは、他人が計れるものではないし、あくまでも第三者の他人である私の推測の域を出るものではない。


その彼は、内面では幸せを感じているのかもしれないし、十分に満たされているのかもしれない。


その人の幸せは、その人自身にしかわからない。


だから、決して他の修行者のことを批判的に言うべきではないのだ。



しかし、私が、あえてこの問いかけをここで採り上げたのは、とても勘違いしやすい問題だからである。


瞑想していること自体に「満足」してしまうことがあるからだ。


瞑想自体が目的なのではなく、心の平安を得ることこそが目的であるはずである。


その点は、しっかりと心得ておきたい。



そのためには、やはり常に真摯に自己を振り返り、常に真摯に自己と向き合っていかなければならない。


そして、常に自己の観察に努めていなければならないと思う。



瞑想は、変化の大小や多少を問うものではないが、何かしらの進歩を得たいと思うのが正直な気持ちでもある。


しかし、なかなか変化が見えて来ないこともある。


冷静に、客観的にものごとを観察していくことができてきたならば、必ず見方や感じ方は変わって来るはずだ。


大きく変わることももちろんあるのだろうけれども、自分では気づかないとても小さな変化であることもある。


大きな変化を期待するべきではなく、毎日、継続していくことのほうが重要だ。





私は、タイでの出家修行中には、そうした大きな心の変化というものを感じることができなかった。


むしろ、感情の荒波の中へと巻き込まれてしまい、ただただ苦しむだけであった。



そんな情けない私の修行生活であったが、日本でのこの日常生活こそが今の私の修行道場であると思うようになった。



ほんの小さな“穏やかさ”が芽生えてきたように思う。


そして、私は、その穏やかさの芽を大切に育てていきたいと思う。



(『瞑想が深まれば、日常の生活も穏やかになるのでしょうか?』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
瞑想で心穏やかになるかについては、判断が難しいところですね。瞑想実践者の性格や実践期間の長短などによっても変わってくるかもしれません。
ブログにも触れられているとおり、瞑想者と言えども、怒りっぽかったりする方がいらっしゃるようですし。実際、瞑想実践者の殆どは悟っているわけでもないしょうし。
瞑想自体に満足してしまうということに関しても、満足している自分の心に気づいているかどうかが問題なのでしょうね。
私が瞑想して感じた変化は、穏やかというよりも、ものごとを以前よりも冷静に捉えることができているなということでしょうか。仕事などで精神的に落ち込むような失敗をすることが無くなりましたし、心の癖といったものが減ったように感じています。穏やかになるというよりも、冷静になるという感じです。
ただ、私を含めた煩悩のある人間としては難しいことかもしれませんが、いずれにしても穏やかになるとか冷静になるとかといった「瞑想の効果」を期待してはダメなのでしょうね。効果は期待せずに粛々とありのままを観察し続けることが大切なのだと思っています。
そういえば、藤田一照さんが安泰寺に上山したときに言われた「ここに来たのは坐禅で一生を棒に振るために来たんだぞ。その覚悟はあるんだな」(出典:「現代坐禅講義」佼成出版社)を思い出しました。
効果を期待するのではなく、瞑想で一生を棒に振る覚悟ができたとき、真の効果が現れるのかもしれませんね。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

大変素晴らしいですね。本当に瞑想修行の賜物であると感じました。いつも感服させられるばかりです。

さて、ご指摘の点について、私もまさにその通りであるかと思います。冷静なのか、穏やかなのか、それは、内側から見るのか、外側から見るのか、その違いもあるのではないかと感じました。また、例えば、感情の動きを冷静に捉えることができた時、感情に振り回されることはなくなって波風が無くなる、それが穏やかになるということだと私は捉えています。

言葉の表現やそのニュアンスが微妙な部分もあるので、一括りにしては言えない問題です。また、瞑想とは、各人各様、十人十色でもあるので、やはり一概にこうだとは言えない側面もありますね。

効果を期待しない、これも確かに仰る通りです。期待をした時点で、それが執着となってしまって苦しむことになります。ところが、それがなかなかできないというのが私、凡夫の姿なのでしょう。

達磨大師が「無功徳」だと言ったというエピソードを想起しました。どうしても打算的にといいますか、損得勘定といいますかを真っ先に考えがちですが(この場合、瞑想の効果の有無)、そうした思考方法に慣れ切ってしまっていることもあるのかもしれませんね。非常に気持ちを引き締めさせられる思いです。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。