仏教における“修行”とは、「瞑想」に励むことである。
言うまでもなく、かのブッダも「瞑想」によって悟りに至った。
出家生活とは、どこまでも瞑想修行を実践していくための生活だ。
そうした伝統が今なお色濃く伝承され、現在でも真摯に実践されているのがタイの仏教である。
タイでは、出家する際に“儀式”として、いくつかの質問に答えることになっている。
その問答は、あらかじめ暗唱したうえで儀式に臨むので、定型化した形式的なやりとりではある。
しかし、そこには大きな意味があると私は感じている。
出家の儀式の成立過程における歴史的な考察や学術的な考察というわけではなく、ここでは私一個人が感じた勝手な思いを書かせていただきたいと思う。
儀式の中の問答にどのような意味を感じたのかといえば、やはり、ただ単に形式的なやり取りではないということだ。
徹底的に自己を観察していくための出家生活に入るのだから、しっかりと身辺整理をして、気になることややり残したこと、義務や責任はしっかりと果たしてきたかどうかということを確認しなければならない。
同時に、自己の内面においても、全てのことを片付けてきたかどうかということを再度確認するためにもこうした問答があるのではないかと感じたのだ。
儀式の導師より問われる主な問いとしては、病気であるかどうか、自由の身であるかどうか、負債を抱えているかどうか、両親から出家の許可を得ているかどうか、などの13項目の質問である。
まず、出家とは、集団生活でもあるので、それに適さない者は出家することはできない。
私が感じた内面的な意義としては、一言でまとめるならば、やはり「“身辺整理”は終わっているか?」ということだ。
つまり、物理的にも(世間的にも)、精神的にも、あとあと煩わしい問題が起こらないようにしっかりと処理をしてきたかどうかということの確認である。
私が出家したお寺の布薩堂(ウボーソット)にて。
「クサラチットー」・“善き心を持つ者”という出家名を授けていただいた。写真は、最後に過ごした安居の頃。この安居を終えてから、私は還俗して日本へ帰国した。
森の静けさとは裏腹に、心のなかは荒れ狂っていた。
それでも、徹頭徹尾、冷静に、客観的に、そうした心の状態を観察し続けなければならない。
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どうして身辺整理が必要なのだろうか。
そこにはもちろん、さまざまな意味があると思う。
私は、特に瞑想修行のためだということを強調しておきたい。
時には、これ以上続けられるか続けられないか、還俗するかしないかの大問題にも発展しかねないからである。
なぜならば、瞑想修行では、実にさまざまなことが浮かんでくるからだ。
それは、とても苦しく、とても辛い。
ところが、どんなに辛かったとしても、徹底的に観察していかなければならない。
たとえ、どのようなことが浮かんできたとしても。
おそらく、ここで「徹底的に観察する」と言われても、どれだけ過酷なことなのかが伝わらないのではないかと思う。
過去のこと、未来のこと。
気になること、気になったこと、気にしていること。
愛してやまない人のこと、好意を寄せている人のこと。
嫌いな人のこと、恨みを持っている人のこと、憎い人のこと。
好きなこと、好きなもの、嫌なこと、嫌なもの。
快感だったこと、心地のよかったこと・・・
挙げればきりがない。
本当にどんな感情が出てくるかわからない。
ありとあらゆる感情が出てくるし、ありとあらゆる感情が湧き上がってくる。
ある時は、吹き出してくる。
また、ある時は、暴れまわり、激しく荒れ狂う。
そうしたありとあらゆる感情を“冷徹に”、しかも徹底的に観察していかなければならないのだ。
どこへも逃げられない。
また、決して逃げ出してはならない。
それが出家生活であり、悟りへの道であり、瞑想修行であるからだ。
ゆえに、世間的な問題が発生して来て出家生活を継続できなくなってしまうことを未然に防いでおくとともに、そうした厳しい修行生活に堪え得るだけの精神的な準備と、覚悟と決意をもっておかなければ、耐えられなくなってしまうのだ。
私は、そうした修行生活は、
『この暗闇の出口に着くまで、何があっても振り返らずに歩いてくださいね。』
と言われるのに例えることができるような気がした。
『よし、わかった。それは、簡単にできる。』
そのように感じられただろうか。
ところが、とんでもない。
全く容易なことではないのだ。
これは、瞑想実践者であればすぐに理解ができるのではないかと思う。
私がいい例だ。
何度も触れていることであるが、私は、寝たきりの状態である父の病のことが常に気になっていた。
私の場合で言えば、本当の意味での父母の許可を得ていなかったことになるし、自身の中においても本当の意味での解決ができていなかったのだ。
だから、徹底的に観察していくことに負けてしまい、還俗するという選択をしたわけである。
家族のことなのだから当たり前だ。
なんと冷たいんだと、日本人であればそう思うのかもしれない。
しかし、そうした問題は、出家前に解決しておかなければならない問題なのである。
“解決したうえ”で出家に臨むべきなのであり、解決できなかったのであれば、本来は出家するべきではないのだ。
だからこそ、ここで冒頭に挙げた出家儀式の問答がとても私の心に響いたのである。
ひとたび出家したのならば、またひとたび瞑想修行に入ったのならば、たとえ家族のそうした心配事などは、単なる自己の“想念(心の中に浮かぶ考え)”のひとつにしか過ぎない。
それらを冷静に、客観的に観察しながら瞑想を深めていかなければならないのだ。
家族のことだとは言え、自分の頭の中だけで駆け巡っていることがらだからだ。
他の想念と同格なのである。
とても冷たく聞こえるのだろうが、それが真実の姿を観ていくということであり、それこそが瞑想修行そのものなのである。
通常、私達は、世俗的なことがらに慣れている。
自身が欲するものが浮かんだ時には、それらを断ち切ることを望まない。
望むどころか、すぐさま心を奪われて、自身が欲するものを満足させようとする方向へと向かってしまう。
そして、さらに心を失わせて、混沌とした世界へと迷い込んでいく。
そうした心の本性を知らなければならないし、そうした心を自ら制御していかなければならないのである。
『この暗闇の出口に着くまで、何があっても振り返らずに歩いてくださいね。』
振り返ってはいけないと、このように言われた時、自信をもって『はい』と答えられるだろうか。
暗闇の出口まで振り返らずに歩き切ることができるという確信はあるだろうか。
徹底的に観察する・・・テーラワーダ仏教の修行の最も肝要なところでもあり、最も厳しいところでもあるのではないだろうかと思う。
(『徹底的に観察する』)
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