私の父は、長らく難病を患っていた。
父に病の自覚症状が現れ、はっきりとした病名が明らかとなった時、私はまだ学生であった。
母からの電話で父の病を知らされたことを今も覚えている。
病の診断から父が亡くなるまで、約15年の歳月が流れた。
長いようで短かった15年。
しかし、父にとっては長い長い15年であったことだろう。
きっと。
私には、この15年の間、実にさまざまな出来事があった。
大学卒業。
就職・退職・転職。
タイへの旅立ちと出家。
還俗と日本への帰国。
そして再就職。
タイでの出家の話がまとまった時、すでに父は寝たきりの状態になっていた。
タイへと旅立つ私を父はどのように見ていたのであろうか・・・。
私の思いは誰にも理解されることはないと自覚してはいるが、それを傍で見ている側としては気が気ではなかったことだろう。
私が大学を卒業し、実家へ帰って間もなく、父は寝たきりの状態となった。
堂々とした父の姿は、日に日に弱っていった。
まるで子どものようになっていった。
衰えてゆくその姿を見ることは、なんとも言葉には表現できない。
主治医によれば、父の病は、筋肉が萎縮してゆく病なのだという。
人間の体の全ては筋肉で構成されており、あらゆる動作は全て筋肉によるものなのだそうだ。
その筋肉が衰えていき、動かなくなっていくというものだ。
自覚症状として現れた時点ですでに末期症状なのだと説明された。
主治医は、
「もしものことがあったとしても、それは病気の性質から来るものですから、ご家族様の介護が悪かったとか、住環境が悪かったとか、ご自分を責めることはなさらないでください。」
と、私に告げた。
歩行能力も奪われた。
言語能力も奪われた。
食事をとることもできなくなった。
噛むことも、飲み込むことも困難となった。
そのため、「胃ろう」という、管を胃に入れる措置がとられた。
毎食、栄養剤を管を通じて直接胃に入れなければならない。
もう、おいしい、まずいもわからない。
眼球がわずかに動く以外に自由を許されなくなった父。
父が何を考え、何を思っているのか・・・周囲の者が推し量るしか方法がない状態となってしまった。
まだまだ働き盛りだった当時の父。
寝たきりの状態、しかも動くことも、自分の意思を伝えることもできなくなってしまった父。
「周りで勝手なことを言いやがって・・・。俺はそんなことは言ってない。」
と、思っていたかもしれない。
母がぽつりと言った。
「お父さん、自分で生きることも、死ぬこともできないね。」と。
私は、返す言葉がなかった。
とても複雑な気持ちだった。
(つづく 『父の病気2 ~罪悪感とともに~』)
(『父の病気1 ~父の病~』)
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