タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2018/01/01

気づきを保つことと平常心

クリスマス、大晦日、カウントダウン、そしてお正月に初詣・・・この季節は、一年の中で最も賑やかで、最も忙しい時節だと言えるのではないかと思う。

しかしながら、そ
うした雰囲気がないと“それっぽくない”と感じる人も多いのだとか。

これもまた季節を感じる日本の現代的風物詩のひとつということなのだろう。


私が学生時代にとある大寺院でお手伝いをさせていただいていた時のことを思い出す。

やはり年末年始は非常に忙しい。

まず、お寺では12月に入ると少しずつ“仕事”が増えてくる。

大寺院とあって、お寺の仕事は多岐に渡る。

年の瀬も押し迫ってくる頃になると、いよいよ正月準備はラストスパートに入る。

そして大晦日から年明けにかけてはまさに正念場。

この日は徹夜となる。

正月の三箇日は言うまでもなく、この忙しさはだいたい10日過ぎまで続く。

当時は、それが楽しくもあり、日本の伝統文化でお寺の姿だと日々の“仕事”もまた誇らしく感じていた。

今となっては、懐かしき思い出だ。


タイの年末年始やお正月も日本と同じく賑やかになる。

ところが、一歩お寺の中へと入れば、いつもと同じ静寂の空間となる。

お寺では、世間が年末年始だから、お正月だからと言って、特別な行事は何もない。

強いて言うならば、いつもより参拝者が多いといったくらいだろうか。

一日の始まりがお布施ならば、一年の始まりもやはりお布施からというのがタイの人々の思いだからだ。


いつもの時間に、いつものところで、いつもの顔ぶれがある。

いつもと全く変わらない穏やかな時間、いつもと全く変わらない淡々とした一日。

いつもと同じ。“平常運転”だ。


お寺の中で生活をしていると、大きな行事や節目となるような行事というものが少ないぶん、生活そのものが非常に単調に感じられるかもしれない。

しかし、私は、タイのお寺の世間の潮流に流されないこのあり方、そしてこの“何にもなさ”が如何にも大好きなのだ。



~タイの絵葉書より~


街中が賑やかになり、世間の雰囲気も慌ただしくなり始めるこの季節を迎えると、ついついタイのお寺でのことを考えてしまうのだ。

タイのお寺は、どうしてあそこまで淡々としているのだろうか・・・と。

タイにおいても、一般社会での生活は日本とそれ程大きく変わるところはない。

行事もあればお祭りもある。

酒場もあれば、ドンチャン騒ぎもある。

それだけに、タイの街中の雰囲気とお寺の中での生活とのギャップは激しい。


私は、ある時、ふと感じた。

あぁ・・・瞑想に似ているのかなあと。

街の喧騒とお寺の中の静寂。

“私”が見ている“濁流”と自己の観察。

自身を取り巻く荒々しい環境と、それを観察する私自身の関係にどこか通じるものがあるように感じたのであった。


流されるがままに世間の潮流に乗ってしまい喧騒の中にあったのでは、冷静に、客観的に観察していくこと、すなわち「気づき」を保っていくことなどできないではないか。

自身の内面もタイのお寺のようであらねばと感じたのであった。


人間というものは、自分が思っている以上に周囲の「環境」というものに影響を受けやすい。

周囲の環境から善き影響を受けるのであればよいが、悪い影響を受けるようであれば決して流されるべきではない。

だからこそ、どんなに周囲の環境が騒がしくとも、客観的に自己を観察し、冷静に洞察していく力を養っていかなければならないのだと思う。

そうでなければ、自身が「今」、どのような環境に置かれているのかすらも気づき得ないだろう。

自身の「今」に気づき得なければ、次に踏み出す“一歩”のあり方を検討することもできないし、悪しき環境を変えることもできない。


お寺とは福田である。

徳を積む場であり、瞑想する場であり、ダンマを学ぶ場だ。

これらの全てが自身の「徳」なのである。


私は、どんなに世間が賑やかであったとしても、どんなに忙しかったとしても、自分の心がそれらに流されることなく、踊らされることなく、いつも平静であるように努めていきたいと思っている。

あたかもタイのお寺のように。


よく「平常心を保ちなさい」などと言うが、そうした心のあり方こそが“平常心”なのではないかと思うのである。

それは、いつも冷静に自己を観察し、いつも客観的に自己を洞察していくことで可能となるのではないかと思っている・・・すなわち「気づき」を保っていくことである。


改めて、今を見つめてみた。

心を観察し、洞察するという姿勢でもって臨めば、賑やかで忙しくしている世間もまたとても穏やかに観える・・・そのように感じたのであった。



(『気づきを保つことと平常心』)






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4 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
 ミャンマーの1月1日はというと、高級ホテルなどでニューイヤーパーティーやコンサートが開催されたり、ショッピングモールで新年の飾り付けがされたりしますが、街中は普段の日常とそれほど変化はなく、華やぐといったほどではないと思います。単に暦年が換わるといった感じです。
 一方、ミャンマー暦の新年は4月中旬で、数日間にわたる水掛祭りが終わると、その翌日が新年となります。この年末年始の頃、ヤンゴンの瞑想センターはにわか修行者で大混雑します。
 まず、3月下旬頃からは高校卒業試験を終えた若者たちが瞑想にやってきますし、年末年始の休日には大勢の老若男女が瞑想センターを訪れ、センターの宿坊だけでは収容しきれず、瞑想ホール内が臨時宿泊場所となってしまうほどです。水掛祭りの期間中、若者は街中で騒いでいて、瞑想センターを訪れるのは年配者だけかと思っていたのですが、さにあらず。相当数の若者も瞑想に来ていました。
 センター内は「喧噪」というわけではないですが、少々ざわついた感じになります。瞑想初心者にとっては、少々落ち着かない環境になるかもしれません。
でも、ある程度瞑想に慣れてくると、こんなざわついた環境でもそれほど影響されずに粛々と瞑想できるようになる感じです。要は、心の持ちようですね。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

年末年始のミャンマーの瞑想センターでは、たくさんの修行者や大勢の老若男女達が瞑想するためにやって来られるのですね。それは、たとえ“にわか”であったとしても大変素晴らしいことだと思います。残念ながら日本では、全く考えられないことですね。
私もタイの瞑想センターでお正月を過ごしたことがあるのですが、お布施に来られる人は確かに多くなりますが、修行者が極端に増えるということはありませんでした。いつもと違うところはと言えば、やはり托鉢の時でしょうか。お正月(タイでは西暦の正月:1月、中国正月:1月下旬~2月上旬頃、タイ正月:4月の3回の“正月”があります。)をはじめとして、仏教に関係する祝日などの特別な日の托鉢は、お布施の量が際立って多くなります。特に意識をせずに托鉢へ出た私の方としては、逆に今日は何の日だったのかな?と考えてしまうというようなことがありました。
さて、何処へ行っても、何をしていても平常心(つまり、常に自己の心をしっかりと観察していること)・・・これは、簡単そうでかなり難しいことですが、是非とも常に心掛けておくべき姿勢であると思っています。
 心の持ちよう・・・確かにおっしゃる通りですね、心の持ちようなのですよね。どんな時であっても、どんな場所にいたとしても、その時の自分の心を正面からきちんと観察することが大切です。お正月の“喧騒”というものに意識が行っている時点で“喧騒”というものに囚われてしまっているのだとも言えます。このような心をしっかりと観察していかなければなりませんね。これからも怠らずに精進してまいりたいと思います。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

最近、『観息正念』でわからないことがあったら、質問させてくださいとお願いしたものです。

伊藤さんは、心の中にタイの寺を持っているのですね。年末年始の世間の騒がしさに染まらない、聖地が心にあるというのは、大変な徳を積まれたからなのでしょう。私は最近、ひさびさにハマっているゲームがあり、なかなか瞑想モードになれない自分がいます。かつては、私も、上座部の寺に通ったりしていたのですが、修行も十数年経つと、なんだか、かつてほど通う意欲もなくなってしまい、自分は悟りには程遠いのだと、あきらめムードが漂っています。

ただ、このブログに出合ったこともあり、たとえ悟れずとも、とにかく、少しでも徳を積み、私も心の中に、静かな聖地が出来上がればいいなと思いました。

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

私も悟りには程遠い人間だと感じた者のひとりです。以前のブログのなかでも書かせていただいていますが、瞑想や仏教など実生活のなかでは全く意味のないものとして捨て去ろうとしていた程です。修行をやればやるほど、自分には能力がないといいますか、素質がないといいますか、とにかく悟ることなどできないと感じてしまったのです。そして、「私には悟れない」「私には無理」という結論にまで至ってしまったのです。
しかし、それは違いました。無理だからと言って、何もやらなくてもいいというわけではありません。何もやらなければ、今の状態のままです。何もやらなければ、たとえほんの一歩であったとしても前へ進むことは決してありません。むしろ、後退していくことすらありますし、善き縁とも離れていくばかりです。
それを思った時、どんなに小さなことであってもいいから、今の自分に無理なくできることからやっていけばいいんだという結論に至りました。そして、心掛けていくことや、“姿勢”を持ち続けていくこと、それが無理であるならば、心に思っているだけであってもいいから“そうした”気持ちを持ち続けていこうと考えるようになりました。・・・すると、また違った景色がたくさん見えてきました。

匿名様にとって善きご縁となることができましたら、私としても嬉しく思います。穏やかさを保っていくことは容易なことではないのかもしれませんが、少し力を抜いて、自分にできることから始められるといいのではないかと私は思っています。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。