タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2024/10/19

“最善”とはどうすることなのか?

この記事は、以前に掲載した記事を再度編集し直したものである。


今一度、私の振り返りと自戒の念を込めて掲載したいと思う。



仏教の実践というと、特別な何かをやらないといけない、あるいは大変なことや難しいことをやらなければならないと思いがちではないだろうか。


しかし、そうではない。


仏教の真髄とは、私の表現になるのだが・・・特別なことではないし、ごく当たり前のことでごく普通のことであるが、それだからこそ難しい・・・ということだと思う。


それは、やはりダンマパダの中にもある有名な『七仏通誡偈』に帰結するのではないだろうか。


日本でもよく知られているこの偈文は、タイの仏教においても重視されている。



諸悪莫作(すべての悪を犯さないこと

衆善奉行(多くの善を実行すること

自浄其意(自らの心を浄めること

是諸仏教(これが諸仏の教えである



真摯に仏法を学ばれているあなたであれば、一度はどこかで聞かれたことのある偈文だと思う。


『七仏通誡偈』は、仏教の要諦であるとも、仏教の真髄であるとも言われているものであるが、実は、私が学生の頃にはまったく理解ができなかった偈文である。



どこが仏教の要諦であって、真髄なんだ!さっぱりわからないではないか!



このように思っていた。


特別な何かをやらないといけない、あるいは大変なことや難しいことをやらなければならない、それが仏教の実践であると思っていたのだ。



さて、今、振り返ってみるとどうだろうか。



なにも満足にやり遂げることができない愚かな私。


そんな私にできることとは一体何があるのであろうか・・・



それは、私にとって『最善』と思われることをただひたすら実践し続けていくことしかないという結論に至った。


悪いことを行わず、善いことを行い、心を浄くしていくという生き方だ。


ごく簡単なことであるが、どれだけ難しいだろうか。



それでは、なにが『最善』なのか?ということが問題になって来るかと思うのだが、そこは盲目的にあるいは独善的に最善といっているわけではなく、常に仏教の学び深め、また振り返りつつ研鑽することを前提とすることを付け加えておきたいと思う。












私は、タイのお寺で“瞑想”を学び、また、日本へ帰国してからは、随分と派手に“迷走”してきた。


大変未熟な、どうしようもない奴だとお感じのことかと思う。


そんな未熟者の私が、たったひとつだけ学んだ、とても大切なことがある。



それは、私にとって、『一番善いと思ったことをやる』ということだ。



もしかすると、もっと善いことがあるかもしれないし、振り返ってみれば、やはり最善ではなかったではないか!ということも、当然あるかもしれない。


しかし、今の私にとって“最も善い”と“思われる”ことを実践する・・・



それで良いと思うのだ



何が一番最善だったのかなど、所詮は結果論でしかないし、事前に答えが出るものではないからだ。


後々になって、振り返ってみて、善かった・悪かったと評価を与えているに過ぎない。



今の私にとって最善のこと。


今の私が一番善いと思ったこと。



これが『最善』だと“思われる”ことだ。



私は、この姿勢を貫いていけば、決して後悔することはないという確信に至った


どこからも否定できないし、これ以上の結論はないと思う。




私は、タイでお世話になった
何人もの先生方に、失礼ながら機会があるごとに何度も同じ質問をしてきた。



『私は、この先、どういう道を歩んでいくのが、私にとって最も善い道なのでしょうか?』




碩学の先生に対して、素朴で非常に人間的な質問であるが、このように質問したのだ


不思議なことにどの先生からも返って来た答えはほぼ同じであった。



どのような答えであったのだろうか・・・




『あなたが一番善いと思ったことをやりなさい。』




このような答えであった。



この答えを聞いて、あなたは、どのようにお感じになっただろうか?



当時の私は、なんて適当な答えなんだ!もう少し真面目に答えてくれてもいいではないか!と、先生に対してまた大変失礼なことを思った次第であるが、日を追うごとに、なんと味わい深い答えなのだと感服するようになっていった。


同時に、先生に対してなんと失礼なことを思ったのだろうかと、自身のことをとても恥ずかしく感じるようになった



私の責任のうえで、私自身が選択をして進んでいかなければならないのが、私のこの人生だ。


他者は、私の人生の選択のうえでは、助言や提案はできるけれども、実際に私の人生の歩みを進めていくことはできない。


実際に歩みを進めて生きていくのは、何者でもないこの『私』なのだ。



時には真っ暗闇に迷い込んでしまうことがある


またある時には、どうしようもない状況へと突き落とされてしまうこともある。


苦しくて、辛くて、もうすべてを投げ出してしまいたくなるようなこともある。


そのような時、どう判断し、どう行動していったらいいのであろうか?



先生方のこの答えは、そんな人生に対して大変明確に答えを与えてくれているではないか。



自身の生き方が問われているのだ。



実は、そうしたことを端的に『あなたが一番善いと思ったことをやりなさい。』という一言に込めて質問の回答として、私へと贈ってくださっているのだ。



瞑想の実践を踏まえれば、より現実的に受け止めていくことができる。



自身の状態や状況を観察していく。


今この瞬間、瞬間によく気づいていく。


感情の濁流から一歩離れたうえで、次にとるべき適切な行動を選択していく。



こうしたことを繰り返し実践を重ねていくのが瞑想だ。



それは、日々の実生活のなかにおいても、全く同じだということを学ばせていただいた。


それが、瞑想が実生活であり、実生活が瞑想であるということだ。




そのことが
腑に落ちた瞬間・・・




タイで
たくさんの先生方から助言していただいた大切な言葉の数々がまぶしく光り輝きはじめたのであった。


情けないことに、この時まで、大切な言葉の意味を受け取ることができなかったのだ。



全てはタイのお寺で先生方から賜った言葉である・・・




『あなたが一番善いと思ったことをやりなさい。』




・・・という一言に帰結する。


さらには、冒頭に挙げた『七仏通戒偈』に通じていくと思う。


当たり前で、ごく普通のことではあるが、いざ実践していこうとすると難しい。



ここに生き方であり、道であることの意味があるのではないか。



以来、私は、迷った時も、そうでない時も、今の私にとって一番善いと思ったことを実践するようにしている。




【関連記事】


この記事は、下記の記事を再編集したものです。


・『あなたが一番いいと思うことをやりなさい』

(2021年05月29日掲載)







【参考文献】


・ホーム・プロムオン『智慧を開発し、智慧を与える者としてー現代タイ仏教の基盤を支えるポー・オー・パユットー師の教えと姿勢に学ぶー』




・『善悪の超越』
日本テーラワーダ仏教協会




・『新纂浄土宗大辞典』
七仏通戒偈・しちぶつつうかいげ






(『“最善”とはどうすることなのか?』)





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