瞑想の実践をしていると何らかの体験をすることがある。
いや、必ず何らかの体験をするはずだ。
変化があろうがなかろうが、それはそれで体験となるからだ。
そうではなくて、“何らかの体験”といった場合、多くの瞑想実践者は、何かしらの特別な体験、あるいは劇的な体験や変化を想起するのではないかと思う。
やはり、瞑想に取り組むからには、何らかの特別な体験を得たいと思うのが自然な感情であるし、何かを期待したいというのが我々凡夫だ。
だが、そうした変化を得ることが、ひとつの瞑想の成果というか、一里塚のように考えるのは大きな間違いである。
そうした思いは、命取りにもなりかねない重大な落とし穴だと心得ておかねばならない。
実は、私も、瞑想の師にそうした神秘体験を得てみたいと、ついつい言葉を漏らしたことがあった。
師は、『そうしたことが仏教や瞑想の目的なのではない』と、いつもおだやかな師には珍しく、大変厳しい口調ではっきりとおっしゃった。
それだけ神秘体験を得ることに重要な意味はないということであり、またなによりも誤りやすく、大変危険なことだからだろう。
瞑想を実践していて、全くこれと言った特別な体験をしないということも、もちろんある。
なんの変化もないし、なんの変容もないという体験もまた体験のひとつなのだ。
その一方で、ある特殊な体験、いわゆる神秘体験や劇的な出来事や変化を体験するのもまた体験のひとつである。
そうした体験を得るということも、またもちろんある。
結論としては、神秘体験を得ようが、得まいが、どちらでも良い。
そのようなことは、はじめから問題ではないのである。
そうしたことにとらわれてしまうと、先には進まなくなってしまうからだ。
下手をすれば、道を大きく踏み外してしまう危険性すらある。
なぜならば、私が師から厳しく指導を受けたように、神秘体験が仏教や瞑想の目的なのではなくて、かりに神秘体験を得たとしても、それはただの体験であり、ひとつの過程にしか過ぎないからである。
重要なのは、特にこれといった体験がなかったとしても、あるいは何か特別な体験を得たとしても、どのような体験をしようとも、そうした体験を通じて、何を学んで、何を見出して、どのように日々の生活へと反映させていくかだ。
そもそもは、思い込みや固執、執着することから離れることを目指していくものだ。
神秘体験を得たいと固執する。
あるいは、神秘体験を得たら得たで、また得たいと渇望したり、人と違った特別な体験を得たことにおごり高ぶる心を育ててしまうことにもなりかねない。
それでは、本末転倒も甚だしい。
どのような体験を得ようとも、単なる体験であって、それ以上でも以下でもない。
特別な体験や劇的な体験、神秘体験などあってもなくても、どちらでもよい。
あったらあったでよいし、なければないでよいのである。
そうしたことには一切こだわらず、ただ地道に、ただひたすらに実践を積み重ねていくのみだ。
どのような結果であろうとも、その結果にとらわれることなく、自らが実践すべきことをただ実践していくのみである。
それが精進するということではないか。
何の変化も得られなかった。
何も変わらない、何も変わっていないと思い込む。
よく気づき、よく観察していくことが瞑想ではないか。
何も変わらないと思っている・・・その心自体を観察していくのだ。
するとどうであろうか・・・
実は、変化しないと思っていた心もまた常に変化しているのであり、変化しないものは何もないという真実の姿が観えてくるのである。
この事実を真正面から観ていくのが瞑想だ。
冷徹なまでに観察し、洞察していくなかから真実の姿を見出し、真理を見出していくのが仏教の実践なのである。
仏教は観察と洞察の宗教であるといわれる所以がここにあるのだと思う。
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(2012年05月20日掲載)
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