タイの日常生活のなかには、仏教由来の言葉がたくさんある。
それゆえに、タイの生活に触れれば、すぐに何らかの仏教語に出会うことになる。
それらは、日本における『縁起が良い』の“縁起”や『○○三昧』の“三昧”などと同じで、語源となる言葉の意味とおおむね近い意味で使われている言葉もあれば、すでに本来の仏教語とは違った意味あいで使われている言葉など、実にさまざまであるのはタイも日本も同じだ。
ただ、そうした言葉の数がタイのほうが圧倒的に多いという点と、仏教語本来の意味との乖離の幅がタイのほうが比較的小さいという点が日本と異なるところかと思う。
これは、タイでは僧院との距離が非常に近いうえ、男性の多くは出家経験者であることから、仏教が実生活のなかへと浸透していることの反映だと思っている。
例えば、日本語の“三昧”。
近年は、瞑想やヨーガの流行とともにその語源を知る人も多くなっているが、言わずと知れた仏教語のひとつで、サンスクリット語の『サマーディ』の音写だ。
精神をひとつのことに集中して乱さない、仏道修行上(または瞑想上)、非常に重要な仏教語であるが、『読書三昧』などと表現した場合には、読書という“サマーディ”に入るわけではなく、ひたすらそのことばかりに夢中になっているさまを指し、『熱中する』といったほどの意味合いだ。
意味を深く知れば仏教語との繋がりは確かにあるのだが、仏教語本来の意味との乖離具合は、日本語のほうが著しいように思う。
とはいえ、似たような現象はタイ語においてもあって、仏教語としての意味と実生活上での意味とは、若干の違いがあるため、双方の意味をよく知っておくと、より言語の理解が深まるだろうと思う。
タイの仏教では、毎年、多くの人たちが出家をして僧侶となり、また同時に多くの人たちが還俗をしてより善き仏教徒となって、社会へと還っていく。
どれだけの期間を僧侶として過ごすのかは、その本人に委ねられており、文字通りの三日坊主から生涯を出家者として送る者まで実にさまざまだ。
では、どういった理由で還俗を決意するのであろうか。
理由は、人それぞれであり、十人いれば十人の理由があるのだが、時々、人から『なぜ還俗をしたのか?』という還俗理由をたずねられることがある。
その際に、はっきりとその理由を語らずに、なかば濁したような表現がある。
それは・・・
『バーラミー・モッ(บารมี หมด)』
という表現だ。
明確にその理由を語らない、体裁よく言葉を濁した上手い表現だと思ったのだが、吟味すればするほどに、仏教の教理から言っても全く矛盾しない、非常に真摯な受け答えである。
『バーラミー』というのは、パーリ語の『パーラミー』のタイ語訛りだ。
日本の仏教でいうところの『波羅蜜』(ないしは『波羅蜜多』)のことで、サンスクリット語の『パーラミター』がこれにあたり、大乗仏教では仏になるために菩薩が実践すべき修行徳目のことである。
上座仏教では十波羅蜜を、大乗仏教では六波羅蜜が説かれ、上座仏教においても大乗仏教においても、重要な実践徳目のひとつであり、大切な教理の柱のひとつとなっている。
僧院ではなく、実社会において話されているタイ語の中でも『バーラミー』という仏教語が使われることがあるのだが、仏教の教学で使われているような意味ではなく、もっとシンプルに『徳』や『功徳』、『威光』などといった意味で使われる。
『徳』という意味の仏教語は別にあるのだが、『バーラミー』はその人が有する力としての『徳』といったニュアンスをもつ言葉のように思う。
いよいよ私も、どのような縁の巡り合わせなのかわからないが、還俗することになり、僧院を後にした時のことである。
ふと、すでに還俗していったタイ人が語っていた『バーラミー・モッ(บารมี หมด)』という表現を思い出したのだ。
『バーラミー・モッ(บารมี หมด)』とは、日本語に訳すとすれば、『徳が尽きた』つまり『私の徳が尽きたから還俗することになったのだよ。』といったほどの意味合いになるだろうか・・・。
そうである。
“どのような縁の巡り合わせなのかわからないが還俗することになった”・・・のではない。
私にそれだけの徳がなかったからこそ、そういった縁のめぐり合わせになったというだけのことだ。
非常に筋の通った、とてもシンプルな法則に従っているだけなのである。
そのように考えれば、この『バーラミー・モッ』というタイ語は、仏教教理上の本来の言葉の意味とはやや異なる意味で使われてはいるものの、全く違う意味で使われている言葉でもないと思う。
私がはじめてこの言葉を耳にした時は、言葉を濁した上手な説明だと感じたが、よくよく吟味をしていくと、この私に徳がないからこそ還俗することになったに過ぎない。
もしかしたら、そうした自身の姿を謙遜した表現としての意味も含まれているのかもしれないが・・・
それよりも、より明らかに自身の姿を見せつけられたといった方が、私にとっては適切なのかもしれないと思う。
その言葉の語源をよく知れば、より深く意味が理解できる。
まさに縁起、因果、業・・・これらのすべては、この私の日常生活上の実践にあるからである。
実生活を離れて実践があるのではない。
私には、徳がないから、このような結果を招いているのだ。
徳が尽きてしまったからこそ、今、まさにこのようになっているのだ。
吟味すれば吟味するほどに、上手な説明でも、謙遜した表現でもない、そのままの私の姿が照らし出されてくるのであった。
徳の力は、正直であり、裏切ることはない。
なぜならば、縁起であり、因果であり、業であるからだ。
徳を積み重ねていくことができるよう精進していかなければならない。
《参考記事》
・ブログ:【アジアのお坊さん 番外編】
いつも大変お世話になっているブログ:【アジアのお坊さん 番外編】に大変興味深い記事が紹介されている。仏教由来のタイの日常語で『ご縁があれば・・・』という表現について紹介されている。こちらの記事もあわせてご覧いただきたいと思う。
この話題の他にも、仏教や瞑想に関する考察がとても鋭く、非常に学びになる記事がたくさん掲載されており、私が楽しみに読ませていただいているブログである。
(『私の徳が尽きたから・・・』)
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