あくまでも、私の経験や理解を通したものですので、私とは違った学びをなさった方も当然のことながらおられる事かと思いますので、是非ともそのようにお読みいただければと思います。
合掌・礼拝(3回) |
今回のタイ佛教修学記・特別勉強会では、タイの慣習にならって、集まりの一番はじめに比丘より五戒を受けることから始まりました。
私達在家者の側から、比丘に対して五戒を受けることを要請する文言を唱えます。
そして、比丘の側から授けられた五戒をひとつずつ復唱していくのです。
タイでは、機会があるごとに比丘から五戒を受けます。
それが単なる“慣習”となっている側面もあるようですが、その意味を尋ねれば、五戒とは、私達の生活において最も基本となるもので、日々穏やかに過ごすための拠り所となるものです。
だからこそ、繰り返し機会があるごとに五戒を受けるのです。
ところが、五戒を完璧に守り切ることは容易なことではありません。
真剣に向き合えば向き合うほど、その難しさが理解できるはずです。
では、守れないから、不可能だからと言って一蹴してしまっていいのでしょうか。
そうではないはずです。
守ることができれば言うことはありませんが、守ろうと努めていく姿勢に意義があるのだと思います。
あるいは、五戒に沿った生活を心がけていくことこそが大切だと思うのです。
私は、五戒というものを意識するだけでも、その生活は変わってくると実感しています。
今回のニャーナラトー師のご法話では、私達の実生活の中でどのようにして心穏やかに生きていくのかということを中心にお話をされました。
ご法話では、はじめに「宗教と言うと、どこか“危ない”というイメージを持たれている方が多いのではないでしょうか?どうか“宗教”という言葉のイメージでとらえずに聞いていただきたいです。」という語りかけから始まりました。
「宗教」=「危ない」というイメージは、残念ながら、今の日本における「宗教」のごく一般的なイメージであると言わざるを得ないでしょう。
・・・実は、こうしたブログを書いております私も“宗教”というと「怪しい」「危ない」「胡散臭い」「騙される」「マインドコントロール」などといった言葉を思い浮かべてしまいます。
そして、そのような「目」で見てしまいます。
私は、お話のはじめにこうした表現を出されたということは、宗教というものを想起させずに仏教を伝えようとなさったニャーナラトー師の工夫であるように感じました。
さらに「今の日本人の多くが“不安”というものを抱えて生きているのではないでしょうか。」と、問いかけられました。
この問いかけを耳にして、あなたは、どのようにお感じになりましたか?
私は、まさにその通りだと思いました。
何者かわからない、正体不明の漠然とした「不安」というものが常に付きまとっているように感じます。
私もかつては、その例外ではありませんでしたから、そうした不安をよく理解できます。
では、この私達が抱えている「不安」とは、一体何者なのでしょうか。
また、何に起因するものなのでしょうか。
ニャーナラトー師は、「拠り所がないこと」に起因しているのではないかと、私達に投げかけられました。
そして、「たくさんあれば幸せになるというものではないのです。」ということを仰いました。
これは、どういうことかと言いますと、多くの人は、お金や物など、何でもたくさんあれば豊かで、幸せな人生になるのだという思い込みを持っています。
しかし、実は、そうではないのだということなのです。
私達の身の回りには、あまりにもいろいろな“もの”で溢れかえっています。
何に関しても、いっぱいあり過ぎるのです・・・必要なものも、不必要なものも。
さらに、かたちがある“もの”だけではなく、「情報」に関しても、もの凄い量の情報で溢れかえっています。
ありとあらゆるものに関して、量も多いし、変化していく速度も速い。
しかも、半端ではありません。
ありとあらゆるものが、あまりにも多過ぎると、どれを選べばよいのかもわからなくなってしまう。
そして、どれが本当なのかがわからなくなってしまう。
必要なのか、不必要なのかすらもわからなくなってしまう。
本当のものがわからなくなると、本当のものを選ぼうとする。
そこで、新たな苦しみが生まれてしまうのですね。
なんでもすぐに答えを出さなければならないと思っている。
すぐに答えが出なければおかしいし、すぐに答えを出さなければいけないと思っている。
こうして、さらに追い詰めて、さらに苦しみを作り出してしまっているのです。
そして、不安を大きく膨らませてしまっているのです。
もしも、それらの不安を越えられる何かの「技術」をもっているのであれば、もちろんそれを使えばいいですし、実践すればいいでしょう。
しかし、そうした「技術」もいいのだけれども、「まずは人生の“土台”というものをしっかりとしなければならないのです。」ということをニャーナラトー師は、ご法話のなかでお話くださいました。
私は、出家生活の多くの時間を森のお寺で過ごしました。
ニャーナラトー師のこのお話には、大いに頷かされるものがありました。
私達の身の回りには、あまりにも多くの“もの”があり、あまりにも多くの“情報”があります。
森のお寺には、何もありません。
何もないのですけれども、心が穏やかになっていくのです。
これこそまさに「たくさんあれば幸せになるというものではないのです。」というニャーナラトー師の言葉の通りであると思いました。
何もない。
何もないのに、とても心が落ち着くのです。
何もないのに、安心感があるのです。
この安心感は、一体どこから来るものなのでしょうか。
近年では、自己啓発的な方面のことがらや、精神的な方面のことがらを教えるものが多くなっている気がします。
人間の「心」というものの傾向をよく分析されたいいものもたくさんあります。
不安を解消するための「技術」としては、悪くはないのかもしれません。
しかし、自身の生活の基盤となるもの、自身の生活を整える“何か”がないといけません。
そうでないとすぐに崩れてしまいますし、いつ折れてしまうかわかりません。
それでは、どうしていけばよいのでしょうか。
自身の生活を整える“何か”とは一体何なのでしょうか。
ニャーナラトー師は、それは「シーラ」(戒=五戒)という基盤を築いていくことである、と仰いました。
私は嘘をつかないよ、私は泥棒をしないよ・・・といった「自分」をしっかりと作り上げていくことこそが大切なのです。
そうすれば、悩み事の解決や問題・課題の解決などは、自然についてくるものです。
戒に沿った生活をすれば、決して後悔することはありません。
あるいは、後悔することは少ないのです。
戒を守って生きることは、自信にもなりますし、他者から信頼されるばかりではなく、自分への信頼にもなるのですと、お話しくださいました。
私は、五戒を守って生きることとは、善き生活習慣を身につけて、自己の身を整えることであると理解しています。
これこそが確固たる自己の基盤となるもの、すなわち“拠り所”であると思っています。
生活をしていくこととは、業(行為、行い)を積み重ねていくことですから、善いことをすれば善い結果へとつながっていきますし、悪いことをすれば悪い結果へとつながっていきます。
ニャーナラトー師は、このことを「厳然たる客観的事実である」と、表現なさいました。
実は、私・・・つい最近まで、戒を守ることや自己の身を整えるということが、どうして人生の基盤となり、拠り所となるのかという意味がさっぱりわかりませんでした。
しかし、ある時、ふと、腑に落ちたのです。
今、この瞬間、今、この時の行為・行動が明日の私につながっていくのです。
さらには、その先の未来の私の人生へとつながっていくのです。
そのことが腑に落ちた時、心は自然に安らぎ、あれだけ抱えていた漠然とした不安は小さくなっていきました。
自身の行動の基準となるもの、それが「拠り所」ということの意味するところで、自身の人生への信頼となるものなのではないかと思うのです。
ところが、もし、そこが信頼できないとなると、全てが成り立たなくなってしまいますし、全てがもろくも崩れ去ってしまうのではないでしょうか。
ひとえに因果律(因果の法則)を信頼できるのか、できないのかにかかっているのではないかと思います。
もし、ここを信頼できないのであれば、仏教を信じることはできないと言っても過言ではないのではないでしょうか。
なぜならば、因果律とは、仏教の根本であり、根幹となるものだからです。
因果律を信頼しているからこそ、未来を信頼することができるのです。
そして、自身の人生への信頼や自信にもつながってくるのです。
それが、ニャーナラトー師が言われる「戒に沿った生活をすれば、決して後悔することがない。」という言葉の意味するところなのではないかと私は聴かせていただきました。
ニャーナラトー師は、戒と言う基礎がしっかりとできていれば、問題解決は自然についてくるものだと仰いました。
戒を守って、身を整えたところで、すぐに問題解決がはかられるものではないのかもしれません。
しかし、心身を整えることは、問題解決の第一歩であるということが言えます。
なぜならば、心身ともに整った状態にあるからこそ、冷静な判断が可能となるからです。
そして、物事の見方やとらえ方が変わり、今の私がとれる選択肢に変化が現れるのです。
その結果、問題解決へと向かうための、より適切な判断と、より最善の選択が可能になるのです。
自然に問題が解決してしまうとは言いながらも、実は厳然たるプロセスがあるのです。
それは、「怪しい」ものでも、「危ない」ものでも、「超自然的」なものでもありません。
まさに客観的事実なのです。
もちろん、私にも不安はたくさんあります。
日々の悩みもたくさん抱えています。
しかし、言葉では言い表すことなどできませんが、漠然とした「不安」というものは、それほど大きくはありません。
そういった意味では、とても心穏やかに生きています。
因果律への信頼・・・このことが腑に落ちた時、漠然とした「不安」というものは解消されるのでしょう。
不安ならば、今できる最善のことをやればよいのです。
問題解決に至るには、時間的に多少ゆっくりなのかもしれませんが、これがニャーナラトー師が仰るところの「基礎をしっかりとする」「拠り所」ということなのだと、私は聴かせていただきました。
悩みや苦しみの本質は、今も昔も全く変わるものではありません。
しかしながら、情報過多で、何を選ぶべきかわからず、何を信じてよいのかもわからない・・・さらに、その規範となるものも、基準となるものも何もないというのが、今の日本の実情であるような気がします。
そんな時代を生きる私達にとって、生きるヒントとなるものがここにあるのではないかと感じました。
合掌・礼拝(3回)
サートゥ
(สาธุ / sādhu)
< つづく ・ ニャーナラトー師の法話2 ~私はこのように聴きました <「ダーナ」「シーラ」「バーワナー」> ~ >
※記事の中には、ニャーナラトー師の言葉を多く引用しています。また、ニャーナラトー師の言葉に私の言葉や解釈を織り交ぜて表現している箇所も多くあります。そのうえで、私の「理解」として記事をまとめていますので、その点をご了承ください。
※また、ニャーナラトー師がお伝えされたかったことを正しく伝えることができていないかもしれません。これは、ニャーナラトー師には大変失礼かつ、申し訳のないことなのですが、ひとえに私の理解不足、そして未熟さゆえのことです。何卒お許し願いたいと思います。
(『ニャーナラトー師の法話1 ~私はこのように聴きました <拠り所> ~』)
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