タイでは、善きにしろ悪きにしろ社会全体に仏教の価値観が大変深く浸透しており、仏教無しでは語ることはできない。
それゆえ、このような疑問が抱かれることは少ないし、問題とされることもない。
逆を言えば、それほどまでに当然の如く仏教的価値観が自然に受け入れられているのである。
仏教では、偶然というものはなく、全ては因果の法則による必然のものであり、全ては自己責任であると教える。
とは言いながらも、世の中は理不尽なことばかりであろう。
どう考えても、私の責任ではないことを被らねばならないことだってある。
所謂、濡れ衣だ。
濡れ衣を被ってしまったという過去をお持ちの方も多いのではないかと思う。
私もそうであるし、どなたであってもそうした経験のひとつやふたつくらいはあるだろう。
さて、こうした自己責任の論理は、比較的わかりやすいものであれば、それは理不尽ながらも受け入れることができなくもないが、例えば他者から不当に被ったものであれば、それは断じて受け入れることができない。
その心情は、至極当然だろう。
ところが、そのような一見不当に思えるような出来事であっても、因果を説き、自己責任を説くのが仏教である。
なぜ、そうであるのかを以下の4つの観点から簡略に触れてみたいと思う。
1、仏典には『他者責任』は説かれていない
今、出会った出来事を仏教の受け取り方として受け取っていくことを前提とする。
もっとも、仏教を前提としないお方は、ここを読むことはないとは思うのだが、念のため前提条件を提示しておくこととした。
さて、仏典を読み解いていく限り『他者責任』は、どこにも示されていない。
仏教では、一貫して因果の道理や縁起ということが説かれており、仏典に尋ねていく限り『自己責任』というところへと帰着し、『因果の道理』というところへと帰着する。
私がいかに納得できなくとも、それは因果の道理から観れば、必然のことであり、この私に端を発しているものであるからだ。
2、確固たる原因は、特定できるものではない。
次に、私たちが「原因」であると思っていることは、全てが一因であり、その要因でしかない。
主な“一因”であるということは言えたとしても、原因の“全て”であるとは決して言えないということだ。
また、原因は単独ではあり得ないということである。
あるひとつの結果へと至るには、実にさまざまな所謂“原因”が重なり合い、絡み合いながら、あるひとつの結果へと至っている。
その重なり合い、絡み合った全てのものが原因であるはずだ。
“結果”もまたすぐにひとつの因となり、次の果へと繋がっていく。
何かあるひとつの特定の事象にのみ原因を求め、これだと特定しようとする観念こそが、理不尽だという感情を生んでしまうのである。
何か特定の事象だけが「原因」であるわけではなく、実は、あくまでもそれらは、ひとつの要因であり、一因であり、遠因でしかない。
私たちの目に見える範囲など、所詮が知れている。
理解することのできる範囲は、ほんのごく一部分でしかない。
一見すると、納得のいかないことがらや、理解不能なことがらであったとしても、因果の道理から観れば、そうならざるを得ない「縁起」のうえにあったということが言える。
理不尽だという感情も、私の描き出した感情であり、妄想だ。
私たちは、すべて因果の法則のなかにあり、「縁起」のうえに存在しているのであり、全て関連し合って存在している。
単独で存在しているものは、この世界に何ひとつとして存在しない。
ゆえに、何らかのかたちで関係し合い、影響を受け合い、また与え合いながら関わり合っているということが言えるのである。
だが、その全体像は、到底、私たち凡夫に観えるものではない。
まさに、不可思議、不可称、不可説なものであると言っても過言ではない。
3、凡夫に理解できる範囲はごくわずか
最終的には、凡夫だからわからないという説明になってしまうのかもしれない。
それでは、説明になっていないではないかと言われそうだ。
しかし、2で述べた通り、原因はいくつもあり、関係し合い、絡み合い、影響し合っている。
関係していないものは何ひとつない。
逆に言えば、関わり合ったものは、全てが原因であるとも言える。
どれが欠けても、何が欠けても、今、ここにある結果は生まれない。
そのように捉えると、どれもが全て原因であるはずだ。
どれもが原因となるからこそ、また何が原因となるのかわからないからこそ、今の私の「行い」が問題となってくるのである。
だからこそ、いつもより善きことをなしていかなければならないのだ。
やはり、智慧のなき凡夫には、思いはかることも、言葉として説明することも、知り得ることもできないことで、凡夫に理解できる範囲など、ほんのごくわずかなことしかないのであり、障子の穴から垣間見る程度のことでしかないのである。
時には、心情的にどうしても自己責任を受け入れることができないこともある。
この「私」は、実にかわいいと思うものである。
一方で、世の中は理不尽なものなのだ。
だからこそ、他者の責任にして、己を守りたい感情が出てくるのである。
しかし、どのような事象であっても、因果の道理から外れるものはひとつもなく、全て必然であり、みな繋がり合っているのであり、みなそのようになる相応の理由がある。
原因や理由は、非常に重層的であり、非常に複雑なものであるが、心をよく落ち着けて眺めてみれば、そのごく一部分をほんの少しだけ見せてくれるのだ。
さらに、冷静さとともに洞察力が高まり、より心の落ち着きが深まってこれば、より多くの「筋道」を垣間見ることができるのだ。
その道が『瞑想』である。
とはいえ、それは、全体からすれば、どこまで行っても所詮は、垣間見ているに過ぎない。
4、どのように生きるのかを問うのが仏教
これは、多分に私の所感となるのかもしれない。
いくら出会った出来事を理不尽に感じようとも、過去云々について言ってみようとも、全く意味がない。
事実は事実で、どうにもこうにも動かしようがないからだ。
そのような事象としての事実を踏まえたうえで、その次に、この私は、どう行動していくのかという問いへと繋げてこそ、はじめて意味を持つものではないかと思う。
仏教や瞑想は、意識の方向性を問題とするものである。
他責的に物事を捉えていたのでは、己の心の境涯に進展はないだろう。
己の行動や心の境涯を磨くどころか、他責的に受け取っていたのでは、怒りや恨みの感情へと発展するだけだ。
相手の責任にしてしまう心がここにあるという事実を知る。
己は悪くないのだという心がここにあるという事実を知る。
善し悪しを与えるのではなくただ知るのだ。
そのような心の状態であるのだということをただ知るのだ。
納得がいくいかないは、どこまでも人間の感情論である。
このように『観察』していくのが『瞑想』だ。
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