なんの変哲もなく、ごく自然に寺の壁に飾られている生々しい死体の写真・・・これを見た者は、おそらく一瞬ギョッとするだろう。
いくら修行の寺だとは言え、日本の寺ではおおよそ考えられない風景だ。
どうしてそこまでするのだろうか・・・疑問にすら思える。
多くのタイ人比丘達は、還俗して再び元の在家の生活へと戻っていく。
それなのに、なぜ、そこまでの修行が必要なのだろうか・・・。
一生を比丘として修行に専念する者のためだけに向けられたものなのだろうか。
還俗し、今、日本でごく普通の“人”として暮らしている私は思う。
人生の本当の姿を知り、わが身の本当の姿を知り、死というものの本当の姿を知る・・・真実の姿を確かに心得て、真実の姿を確かに理解をして生きることの大切さを教えんがためなのではないかと。
寺に飾られた死体の写真は、一生を比丘として暮らす決意を持つ者達へも、還俗をしていく者達へも、そして在家として生きている者達へも、全ての者達へと語りかけているのだ。
あなたはどう生きるのですか?と。
~私の師からいただいた写真~
「人生とはなに?」
「どうして生まれてきたの?」 |
≪ご注意≫
この記事は、修行に関することを紹介させていただいています。
少々過激と思われる事柄もありますが、タイという風土の中で、比丘の修行法のひとつとして認められているということ、現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。
佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。
なお、日本において推奨するというものではありません。
これらの点を前提として、自己責任のもとでお読みください。
タイの瞑想センターや森の寺、修行寺などには、よく死体の写真が飾ってある。
腐りかけた死体の写真
血まみれになった死体の写真
腹部を開いた死体の写真・・・
これらは一体何のために飾られている写真なのだろうか?
日本では全くあり得ない光景だ。
もし、日本でこのような写真を飾っていたのなら、それはまぎれもなく「狂気」である。
しかし、タイでは狂気ではなく、「不浄観」のひとつとしてこのような写真が寺に飾られている。
バンコクにある仏教書籍の専門店にも不浄観のための写真集(といっても小冊子であるが)が売られている。
その写真集の内容はといえば・・・
体が開かれて内臓が見える写真
内臓が取り出されている写真
皮が剥がれている写真
死体が火葬されている写真
骸骨となっている写真
いかにも気持ちの悪い写真ばかりであるが、この写真集では生きている者が死に至り、骨となっていくさまを視覚化して見せてくれている。
写真とともに仏教に関連した言葉を織り交ぜた解説が添えられている。
「人生とはなに?」
「何をするために生まれてきたの?」
「阿羅漢となった者は、痛みを痛みとしてとらえない。
ゆえに痛みを感じない。」
「阿羅漢となった者は、快楽を快楽としてとらえない。
ゆえに快楽を感じない。」
このような言葉が添えられている。
こうした写真集が仏道修行のためのものとして仏教書籍の専門店に売られているのだ。
寺にこれらと類似した写真が飾ってあるということは、このような人間の生き様や人間の姿をしっかりと心に留め、わが身や人間そのものを客観的に観察し、そしてわが身もまた写真のようになる身であり、その写真となんら変わることのない身であるということを忘れないために常日頃から目に見える形で示されているのだ。
私が自身の瞑想修行のなかで一番大きかったことに性的な高まりがある。
出家生活の中では、何度も性的な高まりとそれを抑える苦痛とに出会った。
修行生活の中で出会う、そのような時のためにも、よく見える場所にこのような写真が飾ってあるのだろう。
しかし、実際にはそうそう簡単に暴れ回る心はおさまるものではない。
心は思い描いた通りにはいかないものなのだ。
心とは、まるで暴流の如く、荒れ狂う濁流のようなのだ・・・。
気持ちの悪い、腐りかけた死体に対してでも妄想が浮かび、抱きたいと感じた瞬間すらあった。
性的な快楽を得たいと思う欲望と、それを抑えて消し去ろうとするができない苦しみ。
ただただ耐えるしかなかった。
のちに、ある師から言われた。
「それは、まだまだ自分自身への観察とその死体への観察が足りなかったんだ。」
と。
大切なのは、そのように感じたことは、ただ単に感じたこととして受け止めることである。
そのような感情に巻き込まれて、さらに感情を増幅させてしまわないことである。
そして、単なる妄想として、その場で手放してしまうことである。
ところが、なかなか容易にできることではない。
しかし、日々のトレーニングを積み重ねていくことこそに意義があるのだ。
寺のお堂の中・・・ひときわよく見える場所に飾られた死体の写真は、人間の生き様と自分の人生を、そしてやがては死にゆく存在としてのありのままの人間の姿と、自分の中に蠢く煩悩との対面を『死』というものを直視することで語ってくれているのかもしれない。
※この記事は、2012年6月7日に掲載した『死体の写真と煩悩』のタイトルを改めたもので、加筆・訂正・修正と多少の編集を加えて再掲載したものです。
(『或る森の寺で見たもの』)
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