◆気づきにくい大問題
前回の記事では、タイではタンマカーイ寺院の問題をどのように認識されているのかについて、私のエピソードとともに簡略に触れてきた。
ここでは、具体的には、何がどのようにそれほどまでに大問題なのかについて、見ていきたいと思う。
まずは、もう一度、タンマカーイ寺院の問題点を挙げてみることとする。
1、タンマカーイ寺院の瞑想法は、サマタである。
(サマタ的な瞑想しか説いておらず、ヴィパッサナーについて説かれた部分がない。よって、悟りへと到るための道であるヴィパッサナーを説くものではない。)
2、タンマカーイ寺院では、「我(アッタ)」を説いている。
(仏教は、無我(アナッター)を説くものであるが、無我を否定し、我を説いている。仏教を独自に解釈しており、すでに仏教教義から大きく逸脱している。)
3、タンマカーイ寺院における寺院運営の問題。
(土地問題、金銭トラブル、その他多くの疑惑があり、反社会的手法による進め方が周囲とのトラブルを招いている。タイ社会では、1、2、の問題よりも、3、の問題の方が大きく取り扱われ、一般の関心ももっぱらこの問題の方である。)
おおむね以上の通りであるが、タイ社会の関心事としては、むしろ順番が逆で、話題にされることといえば、もっぱら3、の寺院運営に関する問題のみである。
日本においても、インターネット上で見ることができる記事は、もっぱら3、についての記事のみであるというのも、タイ社会のこうした実情を反映しているのはないだろうか。
もっとも、3、に関しては、仏教の問題というよりも、寺院運営上の問題であるので、仏教教義そのものとは何ら関係がない。
携わっている人の人間性の問題であり、モラルの問題である。
単なるスキャンダルだ。
すっかり見落とされている問題が1、と2、の問題である。
タイ社会においても、それほど関心をひかないためなのか、話題にされることもなければ、明確に問題点を指摘し、説明できる者も極めて少ない。
ただ、「仏教教義上、間違っていることを言っているらしいから、タンマカーイ寺院とは深く関係しない方が良い。」というアドバイスに留まるのみである。
実際に、私は、何人ものタイ人からこのような忠告を受けた。
ところが、どこがどのように間違っているのかについて説明を求めると、うまく濁されてしまうのであった。
タイの人たちの間においても、間違ったことを説いているという認識は明確にあるのであるが、どこがどのように間違っているのかまでは、深く理解をしているわけではないと思われる。
◆サマタしか説かないタンマカーイ寺院の瞑想
それでは、具体的にタンマカーイ寺院の教えのどこがどのように間違っているのかを見ていきたい。
1、タンマカーイ寺院の瞑想法は、サマタである。
タンマカーイ寺院の瞑想法は、透明で傷のない「光の玉」や「水晶玉」をイメージし、それを身体の中心に置いて、そこへと意識を集中させていくという方法をとる。
光の玉のイメージ自体は、サマタ(止)瞑想の40業処のひとつである「光明遍」で説明されているもので、特に問題はないのであるが、瞑想の教えがもっぱらサマタに終始しているという点が大きな批判点である。
ご存知の通り、サマタによって心を静めてから、ヴィパッサナーへと移るというのが、最も無理のないプロセスであり、最終的に、「無常・苦・無我」の観察を深めていき、洞察を深めていく、そして悟りへと向かって行くというのが上座仏教における瞑想の基本である。
これについてタンマカーイ寺院の側では、サマタの段階を達成する者がいないため(ないしは時間がかかるため)、実際問題としてヴィパッサナーの段階の指導まで至らないのだと説明しているという。
(※近年、あまりにも批判が激しいため、敢えてヴィパッサナーという言葉を入れて、このように説明されるようになってきたとの指摘を聞いている。
批判に応えるような形で、少しずつ説明も変わってきているらしい。ただし、この指摘はあくまでもタイをよく知る人からの情報である。)
確かに、サマタの段階をある程度身につけることは、並大抵ではないということは、瞑想経験者であれば、容易に理解ができよう。
ゆえに、この説明がもし本当であるのなら、納得できる一面もある。
ただ、やはりヴィパッサナーに相当する瞑想がなく、サマタしか説かないという批判のほうが的を得ていると感じる。
しかし、問題は、これだけではない。
◆仏教の解釈そのものが間違っている
タンマカーイ寺院では、冒頭に触れた瞑想を重ねていくと、「タンマカーイ」という“境地”へと至る、と教えている。
タンマカーイというのは、漢字で表記するならば、「法身」である。
これは、大乗仏教における「法身」とは、意味が全く異なる概念なので注意が必要だ。
上座仏教における「タンマカーイ(法身)」とは、仏教の教えの全てが集まったもの、仏教の教えの集合体のことを例えて表現した用語であり、パーリ三蔵の中にたった4箇所しか登場しない用語であるのだという。
このことから、そもそも「タンマカーイ」という言葉の解釈の誤りを指摘できるのであるが、そのような境地など元来上座仏教に説かれたものではないし、瞑想的に言ってもそのような境地へと到ることが目的なのでもない。
これは、仏教教義の誤った理解のほんの一例であって、こうした仏教の解釈の誤りが多数認められ、公に説かれている点が大問題である。
しかも、それをタイサンガの一員として行われている点が大きな批判の的なのである。
ここから、次の2、の問題へと繋がっていく。
2、タンマカーイ寺院では、「我(アッタ)」を説いている。
もう少し「タンマカーイ」という語について触れておきたいと思う。
タンマカーイ寺院では、「タンマカーイ」という“境地”は、“アッタ(我)”であるということを説いていたり、涅槃はアナッター(無我)ではないといったことを公式に説いている点が大問題である。
涅槃はアナッターではない、涅槃はアッタである。
この見解は、タンマカーイ寺院の公式見解であり、仏歴2544年(西暦2001年)頃に寺院側が教義解釈として公式に表明したものなのだそうなのだ。
私が以前に掲載したブログの記事では、タンマカーイ寺院のクティで同室になった比丘から教えていただいたこととして記述したが、今回、タンマカーイ寺院側が公式に主張した教説であるということが確認できた。
すなわち、単に一介の比丘が主張している(理解している)教説であるのではなく、寺院が公式に教えている教説であるということだ。
仏教を学んでいる人であれば、すぐにその誤りに気がつくかと思うのだが、涅槃をアッタであるとするのは、明らかに間違いであり、すでに仏教を逸脱していると言える。
先ほども少し触れたが、こうした主張をタイサンガの一員として表明している点もまた厳しく批判されている。
いうまでもなく、タンマカーイ寺院もタイサンガの一員であり、マハーニカイの一員だ。
本来であれば、このような勝手な教義解釈などあり得ないことで、許されるはずがない。
もっとも、タイサンガを離脱したうえで、独自の宗教グループ(所謂、新興宗教)としてであれば、どのように主張していようが自由であろう。
しかし、タイサンガに属しつつも、このようなテーラワーダ仏教の教えを曲げて解釈し、変えていこうとしている点が厳しく批判されている。
それは、当然の批判であろうかと思われる。
◆なぜ、明らかに間違っているのに熱烈に支持されるのか?
タンマカーイ寺院には、熱烈な支持者が多数いる。
前回の記事で、タイ社会を二分するといっても過言ではないと表現したのは、明らかに無視できないほど多数のタンマカーイ寺院の信者の存在からだ。
それは、本当に、タイ社会を二分しているからである。
なぜ、明らかに間違っているのに熱烈に支持されるのか? ・・・この疑問には、明確に答えは出せないだろう。
社会の“声”としては、「我」つまり、「私」があるように説くことで、お布施(金品・寄付金など)が集まりやすくなるからだとの指摘がある。
また、仏教行事を派手に演出することについても、大きく立派に演出して、よりきらびやかに見せる方が人々の心を掴み、崇める奉る心を膨らませる効果が見込まれて、より多くの人々が集まるからだとの指摘・分析もある。
さらに、その集まった莫大なお金の使途が不明であるという点も批判の的で、疑惑の目が向けられている。
実際に、寺院関連の土地取得の際には、周囲とのさまざまな摩擦を生んでおり、トラブルが発生している。
数々の金銭トラブルが報じられており、タンマカーイ寺院の現住職であるルアンポー・タンマチャヨー師は、現在も(2021年現在)未だに指名手配中であるとされている。
公式の場には一切姿を現さなくなり、寺院のどこかに隠れているのではないかとも噂されている。
タンマカーイ寺院には、こうしたトラブルがたくさんあるのである。
寺院の規模が桁外れであることは、画像を見ていただければ、すぐにおわかりいただけるのではないだろうか。
このような寺院や僧侶の在り方もまた、本来の在り方ではないとの厳しい批判がある。
しかしながら、多数の人たちに支持されるということは、それだけ人々の心を満たす何かがあるのだと思う。
実際に、タンマカーイ寺院の内部は、こうした社会からの批判とは裏腹に、非常に“真面目”そのものであり、大変活き活きとした出家生活と、非常に真摯な人々の信仰の姿がある。
そうした姿を見ると、熱烈に信仰するのも理解ができる気がするのである。
あくまでもこれは、私の感覚的なものではあるのだが・・・。
寺院への貢献度がそのまま「徳」の高さに換算されることが強調される点が大変目立つ。
出家も在家も、眼を疑うような規模の数の集団の中へと入れば、思わず心を奪われてしうのかもしれない。
タイトルを「タンマカーイ寺院の問題点」としていることから、批判的な点ばかりに考察を加えてきたが、もちろんいいところもたくさんある。
例えば、寺院内は、大変真面目な生活態度であるし、非常に先進的な布教方法を取り入れている。
美しく見せることもひとつの布教方法なのかもしれない。
明確な答えを導き出すことはできないが、いいところもたくさんあるという指摘をもって、なぜ、明らかに間違っているのに熱烈に支持されるのか? という問いの答えのひとつとしたいと思う。
◆タンマカーイ寺院の問題点の総括
個人的には、タンマカーイ寺院の問題点の核心は、仏教教義(瞑想)の誤った理解であると思っている。
解釈そのものが間違っているし、しかも、多数の誤りが認められるという。
全く別の教団として活動しているのであれば、何も問題はないのだが、上座仏教すなわちタイサンガの一員であるという枠組みの中において活動しているというのが一番の問題点である。
涅槃はアッタ(我)であり、涅槃はアナッター(無我)ではない。
この一点の、この解釈を採り上げてみても、それはすでに仏教ではない。
仏教を逸脱した教説を説いている点が最も大きな問題であると思う。
瞑想法そのものへの批判については、すでにタンマカーイ式瞑想法の創始者であるワット・パクナムのルアンポー・ソッド師の時代からすでに指摘されていたことである。
このことは、瞑想法の創始者であるルアンポー・ソッド師の生涯について書かれたものが収録されている 藤吉慈海著『インド・タイの仏教』大東出版 P264 に指摘されており、はるか以前より瞑想法として問題があることが指摘されていたことがわかる。
タンマカーイ寺院の瞑想法は、ワット・パクナムの瞑想法である。
ワット・パクナムの瞑想法を受け継いだタンマカーイ寺院の瞑想ほうがより進歩的なことを説いてはいるが、皮肉にも、ソッド師の時代から指摘されてきた瞑想の問題点も同じく、問題点としてより進歩的に大きく発展してしまっているように感じるのは私だけであろうか。
何を行うにしても桁外れに規模の大きな仏教行事は、人目をひくのに十分過ぎるほどだ。
タンマカーイ寺院の支持層は、都市部の富裕層に多いとされている。
政治と関りを持った時期もあったようである。
このような状況とも関連して、心のよりどころを求める人々に、「瞑想」という形で応えつつも、ある意味では、都合よく仏教を解釈しているという一面が大きな問題となっているのだろう。
タンマカーイ寺院や森林僧院の発展にみられるように、タイ社会において、瞑想は確実に求められている存在である。
しかし、瞑想が単なる目先の欲求を満たすためだけのものとなっていたとしたら、それは本末転倒も甚だしいのではないだろうか。
どのような道を選ぼうとも、個人の自由ではあるが、今一度、仏教とは? そして瞑想とは何を目指したものであるのか? を見直してみるべきだと思う。
◆おわりに
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