タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2021/11/29

宗教的要素を抜き去った瞑想への見解は?

 

◆宗教的要素を抜き去った瞑想への見解は?◆



先日、開催させていただいた特別勉強会を無事終えることができた。



多数のご参加をいただき、この場を借りて感謝の気持ちをお伝えさせていただきたいと思う。



さて、2日間で3回同じ講座を開催したのだが、一点だけここで採り上げておきたいことがある。



それは、「宗教的要素を抜き去った瞑想に対する見解を聞かせて欲しい。」という質問を複数の参加者からいただいことだ。



異なった複数の参加者から、ほとんど同じ質問をいただくということは、やはり世間一般の関心事のひとつであるとして受け取ってもよいのではなかろうかと思う。




このように思うのには、もうひとつ理由がある。



過去にもまた別の場所において、全く同様の質問を何度も受けていたからだ。




所謂、テーラワーダ仏教の瞑想として指導される「瞑想」は別として、瞑想指導を受けることのできる場の大部分は無宗教であろう。



また、マインドフルネスと呼ばれる瞑想の一群も、無宗教であることがその特色のひとつだと言ってよいだろう。



マインドフルネスは、無宗教であるばかりでなく、ハイカラな横文字効果も手伝って、社会に広く流布している瞑想だ。



それらに内在している危険な部分を不安視する人が多いということの証左が、私に投げかけられたこの質問なのだと受け取っている。











◆エクササイズとしての瞑想と“所謂”ヨガ◆




話は少し逸れるのだが、私は、日本でアスリート向けの瞑想というものを学んだことがある。



この瞑想は、言うまでもなく、アスリートたちを勝利へ導くためのものだ。



非常に目的がはっきりとしており、宗教云々は一切ない。



さまに勝利のための瞑想だ。



それは、トレーニングの一環であり、エクササイズの一環でしかない。




また、私は、ヨーガ系の瞑想も学んだことがある。



毎年、インドへ学びに行かれている先生の元で瞑想を学ばせていただいた。



ヨーガでは、「ヨーガ」そのものが瞑想なのだそうだ。



私たちが一般に触れるような“所謂”ヨガは、本来のヨーガではないという。



さらに、ヨーガの先生がおっしゃるには、マインドフルネスを含めた世間に流布している「瞑想」は、ヨーガの立場から言えば、断じて瞑想ではないそうだ。




このように瞑想は瞑想でも、瞑想が変われば瞑想の定義自体が変わる。




それは、さておき、ここで強調しておきたいことは、ヨーガも深いところの実践では、やはり宗教であるということである(ないしは、宗教的要素が濃くなる)。



私が学んだヨーガの瞑想がまさにそうで、それはインド哲学というか、紛れもないヒンドゥーの宗教そのものだ。




ところが、一般に所謂“ヨガ”を「宗教実践」だと思って取り組んでいはいないだろう。



たとえいたとしても、それは、ごく少数なのではなかろうか。



おおよそ健康のため、美容のため、趣味の一環として取り組むことが多い。



そもそも、深い哲学や宗教的論理があるということさえ、認知されていないのではないかと感じるほどだ(もっとも、私も、ヨーガの方面については、それほど明るいわけではないが。)。



瞑想もまた、いずれはヨーガのように広く一般化されて、宗教云々という議論など忘れ去られてしまい、健康と美容、そして実利的な面の追求の一辺倒となり、単なるエクササイズの一環となってしまうのであろうか。











◆私の見解は・・・?◆




実は、私は、宗教的要素を抜き去った瞑想に対して、それほど危険視してはいない。



なぜならば、瞑想とは、真摯に実践しているのであれば、ごく自然に自己の姿を見つめていかざるを得ないようになるものだと思っているからである。



見つめていかざるを得なくなるのは、自己の姿ばかりではない。



この世界の成り立ちというか、他との関係が縁となって生起し、全ての現象は相互に関係し合って成立しているものとする、所謂「縁起」を見つめていく方向性のものでもある。



その関係性のなかにあってこそ初めて、この「私」というものが存在し得るということを肌で感じていかざるを得なくなるからだ。



これらの真実は、ほんの少し心を落ち着かせて、思いをいたせば、容易に観えてくるものなのではないだろうか。




少なくとも、私は、機会があるごとに、縁をいただいた方々に対して、そのようにお伝えをさせていただいている。




・・・いやいや、それはあまりにも楽観視し過ぎではないのか?とのお声をいただくかもしれない。



確かに、さまざまなところで「歪」が生じており、問題が起きていることは、もちろん承知している。




私は、その「歪」について、もしも問題があるとすれば、それは瞑想実践上の「仲間」がいないことなのではないかと感じている。



すなわち、独学・独修の瞑想だったからではないだろうか。



あるいは、善き指導者がいなかったことだろう。



指導者がいても誤ってしまったとしたなら、指導者その人の指導そのものに問題があった可能性があるのではないかと思う。



善き師から学び、自身の学びをよく吟味しつつ、師との交流を通じて、自身の実践としていく。



そうした姿勢を持ち続けていれば、必ず自己は磨かれ、修練されていくものだ。




あと、もう一点触れておくべきことがある。



たとえ、宗教的要素を抜き去った瞑想であったとしても、それは、真理の体得へと確かに連なるものであり、自己のあり方を磨くものであるということだ。



それは、仏教という枠組みの中で行われていなかったとしても、真理は真理である。



世の中の真理は、個人が信じようが信じまいが、決して変わるものではない。



単なるエクササイズとしての実践であったとしても、真理への道を歩んでいることに変わりはない。



いつか仏法の世界に帰入する機会へと繋がっていくものと信ずるところである。




それが、私の今までの経験や体験を通じて感じてきたところであり、私の見解である。




さて、ここをお読みのみなさま、宗教的要素を抜き去った瞑想への見解は如何に?




(『宗教的要素を抜き去った瞑想への見解は?』)






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