タイには、男性であれば一生に一度は出家をして、僧院で生活を送るという習慣がある。
一般に言う、『一時出家』と呼ばれる習慣である。
一部の人間にしか悟りへの道が開かれていないと、批判的に捉えられる向きがあるテーラワーダ仏教であるが、私は全くそのようには思わない。
在家も、出家も、大きな流れのうえでは、みな『悟り』という方向へと向かっているからだ。
出家という直接悟りを目指す立場で仏法の実践がしたいのであれば、いつでも出家をして、その立場となることができる。
あるいは、そうではなくて、在家という立場で布施を中心として徳を積みながら、出家者を支援していくという仏法の実践方法もあるわけである。
サンガを維持するのは仏教徒のつとめであると同時に、大きな善根功徳を積むことができる実践だ。
どちらの立場において仏道を歩むのかは、ひとえに本人次第だからだ。
さて、私は、一生に一度は、誰もが等しく僧院生活を経験するという、この一時出家の習慣は、大変優れており、非常に素晴らしい制度であると感じている。
どういうところが大変優れている制度なのかいうと、一時出家の習慣は、サンガを支えるシステムとして非常に優れているという点である。
タイでは、男性に生まれれば、誰もが一生に一度は出家をする。
そして、毎年、大量の人間が出家し、比丘や沙彌となって僧院生活へと入る。
同じく大量の人間が還俗していくわけであるが、それは同時に、大量の仏教徒を生み出すことになるのである。
そうした比丘経験者や沙彌経験者という仏教徒たちがサンガを支える重要な一員となっていくのだ。
森の修行寺での出家式 |
サンガの清浄性を保つという点においても、大変優れている。
一時出家の習慣は、誰もが容易に出家生活へと入ることを可能にしているが、その出家生活は誰かに強制されているものではない。
嫌ならば比丘を続けなければよい。
習慣として出家をしたのであれば、義務を果たしたら、再び社会へと還ればよい。
よって、基本的に、サンガのなかには、嫌々比丘を続ける者は誰もいなくなるし、実際に誰もいない。
このような意味で、サンガの清浄性がよく保たれるし、磨かれるのである。
仏法の学問においても、瞑想の実践においても、純粋な志を持った者が、存分に道を深めていくことができる環境なのである。
そこには、営利に関する思惑は一切入らないし、生業の手段としての資格や学歴を得たり、経歴を得て箔をつけたりとったような思惑も一切入らない。
純然たる求道心からの実践であり、参究であり、学究なのだ。
だからこそ、仏法としての活き活きとした精神性がよく保たれ、社会へと還元されるばかりでなく、後世へと正しく仏法を守り伝えていくことができるのである。
平易な言い方をすれば、仏教の崇高なる『質』が保たれるのだ。
一定の社会生活を経たうえで、真実に目覚め、出家を志し、決意を固める者も多い。
“習慣”によって出家した後に一度還俗し、社会生活を送っていくなかで決意を固め、身辺整理を行ったうえで再出家する者は多い。
あまり日本の話を引き合いに出したくはないが、日本人のように社会生活から“逃避”するために出家があるのではない(言葉は悪いが、そのように受け取れる人が多くいるように感じているし、実際にそのような理解が現代日本における出家だと思う)。
現実逃避ではないまでも、日本では、そうした一群の人物たちがよくクローズアップされ、特集されている記事をよく見かけるのだが、その理由や内容を詳しく拝見すると、タイ人のそれとは雲泥の差があると言わざるを得ない。
日本の場合、出家をしたとしても、ほぼ在家と同じ生活を送ることができるので、そのようになってしまうのかもしれない。
人間として生まれて社会生活を送っていくなかで、厳然たる人生の問題にぶつかることがある。
そうした解決し難い問題に応えてくれるのが、本来であれば、仏法であり、サンガなのである。
いつでも、人生のどのタイミングにおいてでも、精神的な受け皿となってくれるものがあるということは、一個人としても、社会全体としても、非常に意義深いことだ。
残念ながら、日本にはそうした受け皿は全くなく、道を求める者の行き場がない。
そのために、新興宗教に答えを見い出そうとしたり、宗教とも迷信とも判別がつからぬようなものへと染まり、その渇きを潤してもらわねばならない事態へと陥ってしまうわけである。
新興宗教が流行る理由は、そのようなところにもあるのではないかと思うし、その位置が仏法ではないことがなんとも大変残念なところだ。
朝の托鉢の風景 |
このように、タイでは、誰もが一生に一度は出家をする。
それは、小学生から年配者まで幅が広い。
もっとも、20歳前後の若者から30歳代の青年たちの一時出家の割合が最も多くはあるが、大量に出家者が送り出されていくなかから、真実に目覚めた本物の真摯なる求道者や修行者が現れ、指導者となっていくのである。
そして、とてつもなく偉大な人物となっていくのである。
裾野が広ければ広いほど、その山の頂は高くなる。
タイでは、数年に一度の割合で、とんでもない偉大な人物が現れる。
偉大な仏教学者であったり、偉大な瞑想指導者であったり、仏法の歴史と伝統の叡智を結晶させたかのような偉大な比類なき人物が必ず現れるようになっているのである。
こうしたタイの習慣が偉大な人物を定期的かつ安定的に輩出し、サンガが末永く堅固に守られていくように出来ているといってよい。
このような景色を目の当たりにしてから日本の景色を眺めてみると、仏法が衰退していくのは当然の帰結だと感じるし、衰退しか道はないと断言してもいいかのような様相を呈しているのではないだろうか。
もちろん、そうあってはならないのだが・・・。
(『数年に一度現れる偉大な人物』)
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