上座仏教の特徴は、歴史上の人物としての“ブッダ”が説いた教えと、その教えに基づいた実践にある。
同時に、在家者も、出家者も、ともに“ブッダ”以来の伝統を忠実に受け継いだ教えと実践であるという自負と誇りを持った生活を送っている。
在家者は、五戒や八戒を保持することによって、あるいは『布施』の実践やサティ(気づき)の実践を行う。
出家者は、『律』という世俗の社会とは異なった生活規範のもとで生活を送りながら、精神面のみならず、その全ての営みを調えながら精神生活に“専念”する。
在家・出家の境界が非常に曖昧な日本においては、その意味や意義だけでなく、概念そのものがなかなか理解されにくいところである。
上座仏教においては、在家も出家も、そのどちらも仏法の教えの『実践』を“日常”としており、また教えの『実践』を“日常”とすることによって、心を安定させ、平安を得ていこうとする方向性は、全く同じで変わるものではない。
一見すると、全く異なる価値観のもとで生活を送っているかのように思われ、出家者だけが特別な修行生活を送っているかのように受け取られがちなのだが、そうではない。
その立場や状況によって、実践が異なるというだけのことであり、置かれた環境によって実践できることが違うというだけのことである。
逆に言うならば、それぞれがそれぞれの立場において、できる実践があるのであり、実践の違いは、その立場の違いであると言えようか。
どの立場で、どのような実践をしていきたいのか。
あるいは、今の己の立場においては、一体何が実践できるのか。
今の己の立場にあってできる実践をそれぞれ実践し、深めていけば良いということだ。
在家者であっても、出家者であっても、それぞれの環境において、それぞれの立場で、それぞれの実践に励む。
それは、無理なことを実践しようとしているのではない、むしろ、ごく自然な姿なのである。
私がタイの森の修行寺で何度も諭されてきた『瞑想そのものを生活とする、生活そのものを瞑想とする』ということと全く同じだ。
仏法の実践は、日常のごくあたりまえの“生活”としてこそ、真の意味での仏法の実践となるのである。
仏教や瞑想は、何も特別なものではない。
ごく当たり前の、何の変哲もない日常生活そのものなのだ。
日本人にこの感覚が理解できるであろうか・・・ともすると、『宗教』というものを『私』とは全く別世界にある、全く特殊なものであると捉え、仏道の実践や瞑想の実践というものを何やら特別なものであるかのように捉えてはいないだろうか。
・・・だとすると、日常生活と仏法の実践とは全く別物の、全く違った世界のものとなってしまうのは、当然の帰結なのかもしれない。
己の日常生活そのものになってこそ、その人の人生そのものとなるのである。
(『瞑想は特別なものではない ~仏教的生き方とは?~』)
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