タイには、文字通りの『駆け込み寺』がある。
もっとも、お寺自体が、どこのお寺であったとしても、いつ、だれが、どのような目的で訪問しようとも、全く構わない場所であるので、お寺そのものが『駆け込み寺』だといっても過言ではないだろう。
そもそも、『駆け込み寺』などという言葉すら必要ないほどである。
なぜならば、全てが『駆け込み寺』だからだ。
例えば、アルコール中毒の方を社会復帰させたり、治癒や療養することを目的として滞在することを受け入れているお寺がタイにある。
さらには、どのような事情があり、なぜお寺へと駆け込んで来るのかもよくわからないような人までいるのであるが・・・
私が出家をさせていただいたタイの山奥の森の修行寺でも、アルコール中毒の方の受け入れをされていた。
僧院長がそうした方面に大変熱心なお方であったからだ。
お寺では、もちろんお酒はご法度である。
それゆえ、お寺の中には、アルコール類は一切ないし、関係するものも一切ない。
口にすることもなければ、眼に入ることもない。
匂いを臭いをかぐこともなければ、お酒の瓶やパッケージさえも、一切眼にすることはない。
お寺という場所は、自分と真正面からしっかりと向き合う場所でもある。
お寺であるのだから、仏教の学びや『瞑想』に励む機会と、そのための時間はたっぷりとある。
お寺のどこまでも静寂な環境がまた仏教の学びや『瞑想』の実践を通して、自己を深く見つめていくことを促してくれるのだと・・・私がお寺の中で、ともに過ごさせていただいてきたなかで感じることができた。
単に治療や療養という目的だけではなく、ごく自然に仏教や『瞑想』がともにあるのだ。
さて、日本人として、大変興味深かったのは、どのような理由なのかは全くわからないのだが、お寺へと駆け込んで来る人がいるということである。
しかも、それは、老若男女問わずである。
日本で言うところのまさに『駆け込み寺』だ。
日本では、理由なし、予約なし、身分証明書なしの状況で駆け込んで来て、受け入れてくれるお寺はまずないだろうし、単刀直入に言うならば、非常識極まりない人物ということになるだろう。
ところが、タイでは、文字通りの『駆け込み寺』が存在するのである。
タイのお坊さんは、人々の悩み事の相談にも乗るという役割を果たしている。
ゆえに“駆け込み”ではないまでも、日々、たくさんの人たちの話を聞く。
ある程度、心が落ち着くまで、お寺の中で、ゆっくりと心の整理をするということもあるだろう。
タイでは、お寺は、『徳』を積む場所であるとされている。
お寺で徳を積むことができ、悩み事を聞いてもらい、相談にも乗ってもらい、さらに重ねて心が晴々とするのではないだろうか。
お寺にある程度長く滞在していると、出家者、在家者を問わず、たくさんの人たちの出入りがあることに気がつくはずである。
在家の人たちであっても、『瞑想』修行や宿泊が可能であるので、こうした治療や療養をはじめ、悩み事相談や瞑想実践以外の目的であったとしても、お寺へと来る人たちがたくさんいる。
ごく自然なかたちで、お寺や仏教、そして『瞑想』が、生活の中へと溶け込んでいるということは、とても素晴らしいことであると感じた。
なんと言っても、悩みや苦しみを抱えている人たちの『支え』となり『力』となることが実際に機能しているという点がとても素晴らしいと感じた。
お寺の境内へと入ると、まるで私の『家』へと帰って来たかのような深い安らぎを覚えるのは、何も恐れたり、警戒したりする必要のない心から安心できる“心のふるさと”だからなのだろう。
(『本当に“駆け込み寺”があるタイ』)
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