かの釈迦の苦行像をご存知だろうか?
画像を見ていただければ、ああこれかと思われるのではないだろうか。
おそらく、誰もが一度は、どこかで目にされたことがあるであろう、有名なかの釈迦の苦行像である。
人間が生きている限り絶対に避けることができない、老い、病気、死の苦しみを知ることになった『四門出遊(しもんしゅつゆう)』のエピソードはよく知られている。
この事実に大変なショックを受け、絶望した釈迦は、王位を約束された立場と宮殿での生活を捨てて、ついに出家をしたのであった。
出家をした釈迦は、各地を遍歴して6年間苦行したとされている。
かの苦行像は、その時の姿であるとされる。
この苦行像は、日本の国内においても、たくさんの模刻像が各地の寺院に安置されている。
同じく、タイにおいても、たくさんの模刻像が各地の僧院に安置されており、よく見かけることのできる、非常に知られた仏像のひとつだ。
私が出家した北タイにある山奥の小さな森の修行寺の講堂には、かの釈迦の苦行像の大きなポスターが飾られていた。
釈迦の苦行像の大きなポスター以外にも、アチャン・マン、アチャン・チャー、ルアンポー・プッタタートなど、タイの名だたる著名な高僧の写真がところ狭しと飾られていた(『アチャン』や『ルアンポー』が敬称にあたるため、『師』は略すこととする)。
これらは、この僧院の性格をよく表しており、いわば僧院の運営方針をよく読み取ることができるものであると思う。
私は、このようなタイにおける著名な修行者を尊敬し慕っている僧院と縁をいただくことができたからこそ、タイ国各地の修行場へと瞑想を学びに行くことを許可していただくことができたのだ。
その講堂にて、私は、毎日毎日、来る日も来る日も、瞑想に励んだ。
かの苦行像は、タイの著名な高僧の写真が並ぶ、一番右端に飾られており、講堂の壁の斜め上から、ずっと私のことを眺めていた。
私から言えば、来る日も来る日も、ずっとかの苦行像に見られていたのである。
あのリアルな鋭い視線は、時に、私を“ギッと”睨め付けているかのようでもある。
不思議なことに、なぜか、いつも目が合うのだ。
そのたびに“ドキリ”とさせられるのであった。
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パキスタン・ラホール博物館にて 購入した絵葉書 |
パキスタン・ラホール博物館にて 購入した絵葉書 同じ苦行像であるが、撮影の仕方によって、 かなり雰囲気が違って見えるのがまた非常に心を掴む。 森林僧院の講堂に飾られていた苦行像のポスターは、 この絵葉書の写真である。 |
瞑想修行の最中(さなか)という私の身の上が、かの苦行像の瘦せさらばえた姿と重なり、いつの間にかかの釈迦の姿が他人事とは思えない、この私のことであるかのように思えたのだ。
“身体的”にではなく、“精神的”にだ。
それは、まるで私自身の心をそのまま映し出しているかのような心境となって来たのであった。
実に不思議だ。
ここに飾られているのは、ただのポスターではないか。
ただのポスターではあるが、どうであろうか・・・ここまでリアルに表現された苦行中の釈迦が、鋭い目つきと今にも倒れてしまいそうな身体を通じて、この私に対して語り掛けてくるのである。
グサグサと釈迦の視線が私の胸へと突き刺さって来る。
これは、ただのポスターなどではない。
私は、いつの間にか経典の世界へと紛れ込んでいた。
世尊よ・・・
比丘たちよ・・・
嗚呼・・・!!
瞑想実践を重ねれば重ねるほど、壁に飾られたポスターを眺めれば眺めるほど、かの釈迦の苦行像の実物に“会いたい”という思いが、日に日に高まっていった。
いかがであろうか、この時の私の心情をご理解いただける方は、どのくらいいらっしゃるであろうか・・・
声が聞こえてくるのである。
そして、思わず心の底から叫んでしまうのである。
嗚呼、ブッダよ!
偉大なる師、大いなる師、ブッダよ!!
還俗後、幸いにも、かの苦行像が収蔵されているパキスタンのラホール博物館を訪ねることができた。
ラホール博物館は、ひときわ立派で非常に重厚な建物の歴史ある博物館である。
私は、かの苦行像に“お会いさせて”いただくためにラホールへ立ち寄ったのだ。
念願叶って、やっと、“お会い”することができた。
この時の心情たるや文章や言葉では、到底表現することなどできるものではない。
博物館であるにも関わらず、冷たくひんやりとした床に跪き(ひざまずき)地面に額を押し当てて、タイ式に深々と三拝した。
誰もが知るかの釈迦の苦行像は、パキスタンが世界に誇る名宝中の名宝であると言われている。
リアリズムを特徴とするガンダーラ美術の極致であるともいわれており、ガンダーラ美術を代表する作品のひとつであるという。
ところが、非常に有名な仏像である割に、インターネット上には全くといっていいほど、詳しい説明や情報が記載されていない。
どこのどのような僧院で、どのような施設に安置されており、どのような目的で礼拝されていた仏像であるのか。
本尊として安置されていたのか、それとも瞑想のために安置されていたのか。
そして、なぜ、その僧院と、かの苦行像は、地中へと埋もれることとなり、長くその存在を知られることがなくなることとなったのか。
私が知りたいのはそこである。
さらに学問的に言えば、どういった部派の僧院で、どういった人々によって、どの種の仏教が研鑽され、信仰されていた僧院なのかまで知りたいところではある。
・・・パキスタン北西部のシクリ(カイバル・パクトゥンクワ州)の僧院跡から出土した3~4世紀頃にガンダーラの職人によって手掛けられた仏像である。※
・・・落ちくぼんだ眼、血管や肋骨まですけて見える体。厳しい修行をやりぬいた神々しいまでの精神力を表現している。ガンダーラ美術の神髄とも言われている。※
※
西遊旅行・公式サイト『ディスカバーパキスタン』
「ラホール博物館」「ペシャワール博物館」の頁参照。
公式サイトの記述の一部を抜粋し、引用・編集し掲載した。
インターネットを調べてみたところ、上記のサイトが最も詳しく解説している。
不思議なことに、これ以上に詳しくこの仏像の成り立ちや経緯等について解説しているものはない。
私は、釈迦の苦行像の実物に“会えた”喜びと感動に包まれるとともに、尋常ではない虚しさと寂しさに襲われた。
残念でならないのである。
それは、なぜか・・・
この仏像は、もはや信仰の対象ではない。
博物館のガラスケースの一角に、ただ陳列された、無機質な芸術“作品”のひとつでしかないのだ。
比丘が集い、真剣な眼差しで教えを聞き、人生をかけて仏教を研鑽し、瞑想に励む者たちはもう誰もいない。
徳を積むために集った人々はもう一人もいない。
真摯に瞑想に励み、仏教の学問が研鑽されたであろう僧院は、ただの瓦礫同然の廃墟となり、遺跡となり、今はもう生きた寺院ではない。
あえて仏像への敬意を欠いた無機質な表現をするならば、過去の残骸の一部にしか過ぎないからだ。
仏教が活き活きと研鑽され、人々の心の中に確かに息づいている仏教国・タイから来た私にとって、ただただ虚しく、ただただ悲しく、ただただ残念であり、ただただ無念な景色であった。
タイでは、たとえ過去の遺跡であったとしても、瓦礫同然の廃墟となった僧院であったとしても、そこに仏像があれば、どれだけボロボロになった仏像であっても信仰の対象として、大切にされているのだ。
誰だかわからないが、花を手向ける人がいるし、掃除をする人がいる。
ボロボロになった仏像や首が無くなってしまった仏像に対してである。
どれだけボロボロになった仏像であろうとも、そこには、ブッダを敬い、ブッダを慕う確かな心が生きているのである。
そのような国から私は来たのである。
すでに還俗し、比丘ではないが、そのような国で出家し、修学できたことを大変ありがたく思うし、誇りに思う。
私もブッダ以来連綿と受け継がれてきた大きな教えの流れの中にいる・・・ブッダ、あなた様のお弟子の端くれである・・・そのように思うだけで幸せである。
リアリズムがガンダーラ美術の特徴であるとか、ガンダーラ美術の神髄であるとか、大変失礼ではあるのだが、そのような講釈など、私にとってはどうでもよい。
もうすでに生きていない仏教の遺跡を目にした時の胸の張り裂けようもまた、文章や言葉では到底表現することができるものではない。
なぜ、私を遠くパキスタンにまで足を運ばせるだけの『力』と『魅力』を有したこの仏像が、生きた仏教寺院ではない、遺物を展示する博物館にあるのだ・・・私にはわからない・・・どうすることもできない感情に襲われた。
博物館のガラスケースの中に展示されている釈迦の苦行像の前にただただ一人うなだれた。
私が出家をした修行寺の講堂で感じた、あのブッダの声を忘れることができない。
パキスタンのラホール博物館で、かの苦行像の絵葉書を購入した。
本当は、修行寺の講堂に飾られていたものと同じポスターを購入したかったのだが、残念ながらなかった。
もっとも、当時は、なかばバックパッカーと変わらない、自称“巡礼者”であったため、大きなポスターなど持って帰れなかったであろう。
かえって、なかった方が潔く諦めがついて良かったかもしれない。
旅は軽装に限る。
掲載した写真は、どちらもラホール博物館で購入した絵葉書である。
同じ苦行像であるが、撮影の仕方によって、かなり雰囲気が違って見える。
この記事をお読みになられた方は、かの釈迦の苦行像から、どのような言葉を聞くのであろうか・・・
(『釈迦の苦行像からのメッセージ』)
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