タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2023/03/09

森のお寺と町のお寺


タイは、日本人の渡航先として、常に上位にランキングされるほど絶大な人気を誇っている。


旅行のパンフレットなどで、タイの美しい寺院の写真を目にする機会もきっと多いことだろう。


タイの寺院というと、だれもが大変きらびやかで、派手なイメージをお持ちなのではないだろうか。



一方で、拙ブログにおいては、よく話題にしている森林僧院(森のお寺)は、大変質素で、きらびやかさなどまるでない。


あたかも、これでも文明社会なのかと思わされるほど、実に素朴な佇まいの寺院である。



そんな森のお寺であるが、近年、瞑想が大変注目されていることもあってか、訪問する日本人が増えているのだという。


特にタイで瞑想体験を志す日本人が増えているというのである。



タイの寺院は、実にさまざまなタイプがあり一様ではない。


それは、日本も同じなのかもしれないが、大きく分けて町のお寺と森のお寺があり、その生活スタイルは大きく異なっている。


拙ブログの読者様にとっては、そうした違いはすでにご存知の通りであるかと思うのだが、今回は改めて、町のお寺と森のお寺の違いを簡略に列挙してみたいと思う。
















『森のお寺』というのは、自然の山野に交わってブッダの時代により近い生活を実践できるように、町や村から離れたところに建てられた修行のためのお寺のことで、タイ語でワット・パー(森のお寺)と呼ばれている。



一方で、以前よりその町や村にあるお寺のことを、タイ語でワット・バーン(村のお寺)、すなわち『町のお寺』と呼んでいる。


ただし、単に森にあるから『森のお寺』と呼称されることもあり、両者は明確に区別されているわけではない。



近年、『森林僧院』などという日本語表記をよく見かけるようになってきたが、これは『forest monastery』の日本語訳である。



さて、町のお寺と森のお寺とはどのように違うのであろうか。



単なる立地の違いであるのではなく、先述の通り、『ブッダの時代により近い生活を実践できるように町や村から離れたところに建てられた修行のためのお寺』であるため、やはり戒律の順守に厳しいという点が挙げられるだろう。


町のお寺では許されることであっても、森のお寺では決して許されないことが数多くあるのだ。


細かく挙げればきりがないのだが、代表的な点を挙げるとすれば、森のお寺では、お金に『一切』触れることができなかったりする。



とにかく森のお寺では戒律が厳しい。


正直なところ、どうしてこんなことくらいダメなんだと思うこともしばしばだが、こればかりは慣れるしかない。


私は、森のお寺での出家であったため、厳しい方を先に身につけていたので良かった。


もしも、逆だったとしたら、おそらく窮屈で堪らなかっただろう。



戒律云々ではなく、生活上の違いもたくさんある。



まず、森のお寺は、朝が早い。


起床時間は3時半、4時からの勤行だ。


森のお寺によっては、托鉢のために歩く距離が半端ではない。


麓の町や村まで一時間ほどかけて歩かなければならない。



読誦するお経も町のお寺とは異なる。


大雑把に言って、町のお寺と森のお寺とでは読誦形式が異なるのだ。


タイ全土、ある程度の標準化は見られるものの、やはり地方色による違いも濃い。



起居する場所も違う。


森のお寺では、一人に一棟の小さな小屋が与えられる。


町のお寺では、日本で言えば『寮』のような個室が与えられる。


特に新人のうちは相部屋であることも多い。
















町のお寺では許されることであっても、森のお寺では許されないことの最大のことは、比丘は必ず沙彌や在家者を介して物品を受け取らなければならないことだろう。


町のお寺であれば、ある程度の範囲内であれば、比丘一人でどのようなことでもできる(戒律の観点から言えば不可であることもあるが)。


ところが、持戒堅固な森のお寺では、比丘一人で自由に物品を手にすることができない。


比丘は、在家者からの布施によって生活をなす者であるため、すべてが献上されたもの(布施されたもの)しか受け取れないからだ。


食物に関しては、特にそうである。


托鉢で供養されたものであったとしても、お寺でもう一度、在家者から布施を受け取る所作でもって、布施される。


外出の際には、比丘は必ず侍者として沙彌を伴うか、沙彌がいなければ在家者を連れて行かなければならない。


非常に大雑把な表現であるが、比丘は一人では何もできないのである。



このように町のお寺であれば、ある程度は自由であるが、森のお寺へ行けばそうではないということがたくさんあるのである。


出家というだけでも、日常生活に相当な制限がかかるのであるが、そうした生活上の制限がさらに厳しくなるのだ。



これも、敢えてブッダの時代により近い生活を実践できるように設けられた場であり、瞑想修行のための場であるので、そのことを思えば理不尽さは一切感じないし、むしろありがたくもあるだろう。


ブッダの時代そのままの生活ではないにしても、戒律遵守の生活は、より古い出家生活の様式を伝えていることに間違いはないのだから、やはり古の時代の比丘たちの生活、そしてブッダその人の姿を思わずにはいられない。




(『森のお寺と町のお寺』)






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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

日本でワットパーを信仰する日本人です。
日本の文化に無いタン・シン・パワナーを広めたいと思っています。
日本にいらした時にはお会いしたいです。

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。


イギリスのアマラワティ僧院にいらっしゃるアチャン・ニャーナラトー師もターン・シーン・パーワナーについてお話をされておられますね。


【関連記事】
『ニャーナラトー師の法話2 ~私はこのように聴きました <「ダーナ」「シーラ」「バーワナー」> ~』
https://tekutekubukkyou.blogspot.com/2017/03/blog-post_23.html


ぜひご参考になさってください。

当方は、日本におります。もし、ご縁がございましたら、必ずお会いできる機会があろうかと思います。私もその日が来ますことを楽しみにさせていただきます。


コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。