タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2024/04/09

再びタイの数珠を使った瞑想再考

 前回掲載した記事(『タイの数珠を使った瞑想再考』)の通り、タイにおける数珠の役割は、“数をかぞえるための道具”ではなく、瞑想を手助けするための道具であった。


“数をかぞえる”という行為も、広い意味においては瞑想の手助けとも言えなくもないのだが、ともかく大乗仏教における数珠とは使い方がまったく違うということである。


具体的な使用方法については、『タイの数珠を使った瞑想再考』をはじめ、その他関連記事(※註1)をご覧いただくとして、他の上座仏教国ではどうなのであろうか。



拙ブログでは、私の実体験に基づいたできる限り生きた情報を心がけているため、タイに関わるテーマに特化して執筆している。


ゆえに、他の上座仏教国について触れることはしてこなかった。


しかし、今回は例外的に、ミャンマーとスリランカについて、私の瞑想体験や現地での見聞に基づくものではないものの、手元にある資料からの推察できる範囲内において、ほんの少しだけ触れてみようと思う。


ミャンマーやスリランカの状況について、瞑想実践経験をお持ちの方や現地を詳しくご存知の方がいらっしゃれば、ぜひともご教示願いたい。







数珠は、ミャンマーにおいてもタイと同様の目的ならびに使用方法にて用いられているということは、ミャンマーでの瞑想実践経験を持っておられる複数の日本人瞑想仲間から確認している。


また、ミャンマーでは在家者も数珠を使うことがあるということを複数のミャンマー仏教関連書籍の記載から読み取ることができる(※註2)。


ひとつだけタイの状況と異なるところは、ミャンマーでは在家者も数珠を使うことがあるという点だ。


ミャンマーの在家者については、書籍には『数珠を使用しながら真言や呪文を唱える』と記載しているものや単に『数珠を使って心を落ち着けることがある』と記載しているものなどがあり、ややばらつきがみられる。


書籍によって違いがありはするものの、ミャンマーでは在家者も数珠を使用することがあり、数珠を使って日常的に心を落ち着けるための何らかの行為を行うことがある、という点は一致している。


ところが、数珠を使って“具体的に”どのようなことを行っているのかという、行為の内容についてまでは言及されていない。


おそらくは、著者の関心が及ばなかったか、書籍の内容から外れることがらのために記載されなかったのではないだろうかと思うのだが、どうであろうか・・・。



タイにおいては、在家で数珠を使用することはまずない。


すでに別の記事で触れているが、出家者であっても数珠の使用は極めて少数派だ。


タイの在家者で数珠が使用されることがあるとすれば、ごく少数の在家の瞑想修行者に限られる。


やはり、一般の日常生活のなかで数珠が使用されることはないといってよい。



さて、もうひとつの上座仏教国であるスリランカについてはどうであろうか?


スリランカについては、残念ながら現地の状況に詳しく、また直接聞き取りができる人物が私の周囲にはいないためわからない。


スリランカの森林僧院などで瞑想修行を積んだ日本人は少なくないとはいうものの、数珠を使った瞑想を実践したことがあるという話は聞かないし、その詳細も全く手掛かりをつかめなかった。


それが在家者にまで幅が広がると、さらに状況がわからない。



ただし、スリランカの仏教においても数珠は存在するようである。


スリランカでは、在家者も数珠を使って心を調えることがあるということが、ブッダの生涯と仏教の教えを説いたスリランカの仏教の絵本から読み取ることができる。




『絵で見る釈尊の生涯』より
(シンハラ語より日本語に翻訳されたもの)


【生肉を銜えた鷹】

『嘴(くちばし)に生肉を銜えた(くわえた)鷹が他の鷹の餌食にされてしまう。逸楽に耽る(ふける)人は、嘴(くちばし)に生肉を銜えた(くわえた)鷹と同じで、始めは喜んでいるが、やがて悲しみがやってくる。』




仏教の教えとその挿絵が上記の画像である。


挿絵を見ていただきたい。


在家者(※註3)が数珠を持ちながら瞑想あるいは心を調えている様子が描かれている。


教えの内容から、気ままに遊び楽しむことに耽っていてはいけない、よく心を調えていくように励みなさい・・・と教えているのだが、その内容というか中身はというか、具体的にどのようにして心を調えていくのかは、挿絵だけではわからず、推測するしかない(スリランカ現地の方であれば、わかっているというのが前提であろうか・・・)。


おそらくは『放逸ならざること』、つまり『節度を保った生活を送る』ということが、逸楽に耽らないことの具体的な内容だろう。


挿絵の様子から『放逸ならざること』=『節度を保った生活を送る』=在家における“修行”=“よく心を調えること”=“なんらかの瞑想的な実践”、ということになるのではなかろうか。



現在でも、スリランカにおいても、もしかしたら、タイやミャンマーと同様、細々と数珠を使った瞑想が続けられているのかもしれないが、詳しく状況を知る者も、詳しく記載された書籍も探し出すことができなかった。


しかし、スリランカの仏教に数珠が存在することと、数珠を使うことがあるということだけは、確かなことだろう。



以上が上記の挿絵から読み取ることができることであるのだが、その具体的な瞑想方法や使用方法までは特定することはできない、といったところだろうか。



果たして、どのような瞑想を行っているのであろうか。


スリランカのお隣はインドだ。


スリランカには、ヒンドゥーの寺院もたくさんある。


当然のことながらヒンドゥーとの接触は濃厚であろうし、その影響も多大に受けているのではないかと思う。



スリランカでは、数珠をどのように使うのであろうか。


そして、どのような心の成長過程をたどるのであろうか。



上座仏教においては、あまり話題にされることのない数珠と数珠を使った瞑想方法。


興味はそそられるばかりである。




【註】

・註1:

関連記事:『タイの数珠を使った瞑想再考』

その他の記事は、関連記事の項目に記載。


・註2:

例えば、池田正隆著『ビルマ仏教 その歴史と儀礼・信仰』のなかに記載がある。


・註3:

挿絵の通り、スリランカにおいても白い服装は、在家の仏教信者の正装であり、寺院や僧院へ赴く際や瞑想実践の際は白い服装を着用する。




【参考文献】


・『絵で見る釈尊の生涯(LIFE OF THE BUDDHA IN PICTURES)』


※上記の書籍は、原典はスリランカのものでシンハラ語と英語の併記によって書かれているが、タイで知り合った知人が日本語へと訳しており、訳者本人より譲り受けたものである。なお、この書籍はマハーチュラロンコン仏教大学チェンマイ校の図書館にも収蔵されている。


・池田正隆著『ビルマ仏教 その歴史と儀礼・信仰』法蔵館 1995年




【関連記事】


『タイの数珠を使った瞑想再考』

(2024年3月19日掲載)


『数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~』

(2023年05月19日掲載)


『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』

(2017年06月04日掲載)


『タイのお坊さんは数珠を持たない』

(2012年07月03日掲載)




(『再びタイの数珠を使った瞑想再考』)






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