タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

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2023/05/19

数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~


日本における数珠は、各宗派によってその意味を与えられていて、微妙にその位置が異なっている。


それぞれ詳しく調べてみると意外に面白い。


一方でタイの仏教には数珠は存在せず、日常の礼拝や正式な儀式、その他仏教関係の儀式の際においても数珠は一切使わない。


もちろん、瞑想の際も数珠は使わない。



しかし、ごく一部の瞑想法では、補助的に使用される例がある。


でも、それはあくまでも、瞑想を手助けするための小道具という以上の意味はない。



私は、本来、数珠とは“瞑想のための小道具”であったのではないかと考えている。


後に仏教の瞑想において、さまざまな形で活用されるようになっていったのではないかと推測している。



これについては、以前にも拙ブログの記事で話題に挙げている通りである。


(※【関連記事】を参照のこと。)



現在でも、例えば、真言の回数を数えることを必要とする宗派では、所謂カウンターとしての役目があることを挙げることができる。


それは、チベット仏教においても同様だ。



それでは、なぜ本来は数珠が存在しないタイのテーラワーダ仏教に数珠が存在するのかということが問題になる。


あくまで私見であるが、スリランカをはじめとする東南アジアの一帯は、かつてテーラワーダ仏教が信仰される以前は、密教色の濃い大乗仏教とともにヒンドゥー教が信仰されていたという歴史がある。


おそらくは、この時に大乗仏教とヒンドゥー教とともに数珠も東南アジア一帯へと伝来していたのではないかと思う。


数珠は、ミャンマーでも広く普及していることも考え合わせると、テーラワーダ仏教がタイへ伝来する以前の段階で、テーラワーダ仏教の瞑想が大乗仏教ないしはヒンドゥー教から“瞑想の小道具”として数珠を取り入れていたのではないだろうか。


タイの一部の瞑想法のなかに数珠を使うものが存在するという事実から、やはりどこかの段階でテーラワーダ仏教の瞑想が数珠を取り入れたということだけは確かなことだと思う。






タイの数珠
どちらもタイ北部・チェンマイの僧院にて
縁あっていただいたものである。





さて、それでは、歴史をさらに遡って、ブッダは数珠を使用したのだろうか?


・・・これも、あくまで私見であるが、単刀直入にブッダは数珠を使用していなかったのではないかと思う。



私がそのように考える根拠をいくつか挙げてみたいと思う。




【1】

パーリ仏典のなかに数珠の根拠が求められないこと。


日本の仏典の中には、数珠の意味やその功徳やを説く経典が存在するが、私が知る範囲では、テーラワーダ仏教にはそれが存在しない。もし、パーリ仏典のなかに数珠に関することが説かれた箇所をご存知の方がおられたら、是非ともご教示いただきたいと思う。


【2】

比丘出家の際に必須の資具ではないこと。


比丘出家の際に必ず準備をしなければならない必須の資具は、サンカティン(比丘が持つ袈裟)・チーウォン(袈裟)・サボン(腰巻)・アンサ(下着)・バーツ(鉢)・水こし・針・糸 である。数珠は含まれていない。


【3】

数珠を持たないのが比丘の基本のスタイルであること。


上記の通り、数珠は生活資具ではない。儀式の際も、瞑想の際も、出家生活において数珠を持ち、使うことはない。


【4】

教理上、瞑想理論上、直接関係を有するものではないこと。


教理上直接関係するのは瞑想だが、数珠との関連は見出せない。そもそも数珠を使わなくとも瞑想は可能である。決して必須のものではなく、『使っても瞑想は実践できる』というスタンスだ。事実、数珠を使う瞑想はタイにおいてはごく少数派であり、数珠の持ち込みを断る道場もある。


【5】

ごく一部の瞑想法で使われている以外、一切使われていないこと。


タイにおいては、プットーの瞑想法、あるいはタイ北部やタイ東北部の郊外の一部の僧院で使われている以外は、数珠は使われておらず、数珠を使わない瞑想法のほうがはるかに多数を占めている。瞑想という場面を除くと数珠を使う場面はない。




・・・などの理由を挙げることができる。



ただし、タイでは占星術や呪術的な方面も非常に盛んで、比丘が携わることも少なくない。


森林僧院系の寺院や瞑想修行系の寺院では戒律の順守が非常に厳しく、比丘が占星術や祈祷、呪術などに関わることを極度に忌避するため、比丘がそういった関係に携わっている姿を見ることはない。


しかし、一般には、比丘が占いや祈祷を行うことは珍しくない。


タイで広く普及しているプラクルアン(プラ)と呼ばれるお守りは、たとえタイの神々やヒンドゥー教由来の神々をかたどったもの、または呪術的なものをかたどったものであっても、仏教の比丘によって入魂されて“お守り”や“護符”となる。


このように祈祷や呪術を行う際に比丘(あるいは在家の祈祷師)が数珠を使うことがある。


タイでは、数珠と言えば、瞑想というよりも、むしろこちらの方面で使用されることが多いかもしれない。



余談ではあるが、祈祷師や呪術師は、十分な知識や技術を身につけて一人前になるために、カンボジアやミャンマーへ留学して修行を積むらしい。


タイのお守りや護符には古代クメール文字(古いカンボジア文字・コームの文字)が書かれていることからもカンボジアで学び修行を積むというのは納得できる。


現在もなお、そのような伝統が生きているということは、いかにクメール文化の影響力が強かったかであろう。



なお、私は、呪術やまじないを学びたければ、ミャンマーへ行くといいとタイ人からすすめられたことがある。


その知人が言うには、タイよりもミャンマーのほうが呪術や祈祷の“本場”らしい。






タイの護符のひとつ
ここには古いカンボジアの文字が書かれている。
タイ人も何が書いてあって、
どういった意味なのか、
全く読めないしわからないという。





さて、話題を元に戻そう。



タイの瞑想では、数珠はいたって単純な使い方をする。


数珠の玉に触れている『感覚』そのものへと気づきを向けやすくするための“きっかけ”として用いられる。


あるいは、呼吸を数えたり、呼吸へと注意や気づきを向けやすくするための“きっかけ”として用いられる。


それ以上の意味はない。


このような使い方は、ミャンマーの瞑想に詳しい方からも伝え聞いており、ミャンマーにおいても同様の使い方であることを確認している。



タイの数珠も一応は、108個の玉がある。


しかし、数珠の玉の数に意味が与えられているわけではなく、『プットー』を唱えた回数や呼吸の回数が問われることもない。


注意や気づきを向ける単なる“きっかけ”でしかない。



ゆえに、数珠ではなく、ブレスレットでも瞑想はできるんだと教えていただいたことがある。


納得だ。


しかしながら、玉の数に意味がないのならば、なぜ数珠の玉が108個なのかということが非常に気になるところだが、残念ながらその点については情報を得ることができなかった。



ブッダ在世当時から原始仏教時代の仏教には、おそらく数珠はなかったのではないだろうか。


部派仏教時代の仏教にもまだ数珠はなかったのではないだろうか。


しかし、それ以降の仏教のどこかの発展段階において、数珠が仏教の瞑想へと取り入れられたのではないだろうか・・・と私は考えている。



現在のテーラワーダ仏教は、仏教史的にも、教理的にも、部派仏教の一派であることが確認されており、現存する唯一の部派仏教の一派であるとされている。


部派仏教時代の仏教の伝統を色濃く現代にまで伝えているテーラワーダ仏教に数珠がないことから、おそらくは、大乗仏教の影響を受けてテーラワーダ仏教へと取り入れられたものなのではないか?と考えている。


あるいは、現在においても、チベット仏教や日本の各宗派で見られる数珠の使用方法やその意味から考えて、数珠はヒンドゥー教が起源であり、ヒンドゥー教の影響を受けて取り入れられたものであるという可能性も十分に考えられるのではないかと思う。



以上は、勝手な想像である。


読者の皆さまは、いかがお考えであろうか。




【関連記事】


『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』

(2017年06月04日掲載)


『タイのお坊さんは数珠を持たない』

(2012年07月03日掲載)


『アーナパーナサティ』

(2010年05年17日掲載)


『タイの瞑想法についての一考察』

(2020年03年29日掲載)




(『数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~』)






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