タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2016/07/11

自己の観察と気づきは、なぜ必要?

瞑想に取り組んだところで、何も問題解決にならないじゃないか!

私は、“今”ぶつかっている問題の解決をしたいんだ!


そう思ったことはないだろうか。


すぐ目の前にあることを解決したいんだ。

具体的な方法を教えてほしいんだ。

と。


瞑想に取り組んでいる人で、こういった疑問を抱いたことのある人は意外に多いのではないだろうかと感じたことがある。

ごく自然な感情なのではないかと私は思う。


これから何をどのように行動していけばいいのかを知りたい。
これから何をどうしていけばいいのかということを知りたい。


実は、これらは私が悩んできた問題でもある。


これらの疑問は、一言でまとめると「今、何をすべきか?」ということになるかと思う。


仏教や瞑想が、こうした悩みに対して明確な答えを示してくれていないと思い込み、仏教や瞑想など意味のないものであるとして切り捨ててしまうようなことがあるとすれば、それは非常に残念なことである。


・・・恥ずかしながら、私がそうしようとしていたのだ。


瞑想することとは、自己を観察し、今の自己の状態に気づいていくことである。


それでは、どうして自己を観察し、今の自己の状態に気づいていかなければならないのだろうか。
どうして今の自己の状態をあるがままに正しく知っておくことが必要なのだろうか。


それは、激しい感情の濁流のど真ん中にいたのでは、冷静な判断など望みようがないからだ。

あれや・・・これや・・・と、頭の中が混乱していたのでは、果たして結果はどうだろうか。

今の自分の状態を冷静に把握してこそ、正しい判断ができるのではないだろうか。


答えは明白だ。


自己の激しい感情の濁流にのみ込まれたままでは、自分が今どのような状況下におかれているのかなど知ることはできない。

自己の激しい感情の濁流は、さらに勝手な妄想を生み、その妄想に沿った感情を生んでいく。

そして、更なる濁流となり、激流となっていく。


そこで、まずは、自己の勝手な妄想の増幅を防ぐ必要がある。

思考を遮断するのだ。

その遮断こそが「気づき」である。

自己の感情に気づき、正しく知ることで、それ以上、感情の濁流の中へと巻き込まれてしまうことを防ぐのだ。


不安であったのならば、そのまま不安であるという自分に気づくこと。
そして、不安であるという自分を知ること。

心配でたまらないのであれば、そのまま心配でたまらないという自分に気づくこと。
そして、心配でたまらないという自分を知ること。


ただただ静かに、冷静に、あたかも自身のことではないかのように客観的に自己の心の状態を観察し、自己を洞察していくのである。

あれこれと妄想を膨らませてしまってはならない。


そうすることで、心に吹き荒れている波風を止めて、鏡のように穏やかなる水面のような状態へと変えていくのだ。


そのうえで、自分を不安にしている原因は何なのか、自分の心配事の原因は何なのか、ということを探っていけばよいだろう。


そうすれば、より最善で、より適切な道がおのずと選択できることだろう。


ゆえに、自己の観察と気づきが必要なのである。

そのために、仏教の大いなる智慧がここにあるのだと思う。


冷静さを欠いた状況下で、あるいは心の落ち着きが全くないような状況下で、最善の道の選択などあり得ないのではないかと私は思う。







なぜ、自己の観察が必要で、自己を知ることや気づきというものが必要なのだろうか・・・?


単に瞑想を実践しているというだけでは、確かに生活上における諸問題に対して直接回答を与えてはくれないのかもしれない。

瞑想とは、あくまでも“心の基盤作り”であり、“心のトレーニング”である。

最善の道を歩んでいくための土壌作りであると言えるのではないかと私は思っている。


瞑想が問題を解決してくれるのではない。

瞑想実践の結果、自身の物事に対する見方が変化し、結果的に問題解決へと至るのだ。


坐らなくても構わないと思う。

ほんのちょっとの気づきでよいと思う。


今、この記事を読んでいるのであれば、読んでいるんだと知るだけでいい。

何かに触れていたのであれば、触れているんだと知るだけでいい。

それぞれの場所で、それぞれの家庭で、それぞれの職場で、それぞれの中で活かしていけば、それでよいのではないかと思っている。


仏教を知っていようと、仏教を知っていまいと、瞑想を実践していようと、実践していまいと、私達は、事実、この“現実世界”を生きている。

たとえ、何かの宗教や他の理論を信じていたとしても、どのようにして生きていたとしても、「因果法則」、すなわちダンマは誰にでも平等にはたらいている。


それ相応の結果につながる。

すなわち、“そのようになる”のだ。


よりよく生きていきたいとは思わないだろうか?

おそらく、誰もが願うところなのではないか。


ちょっとした気づきと観察が、心の落ち着きへと繋がっていくのだと私は思う。

私は、これこそが人生をより良く、そしてより善く生きていく術なのではないか思うのである。


今日も苦しみの中を生き抜いていかなければならないのだから。
今、この現実を生きていかなければならないのだから。


だからこそ、自己の観察と気づきが必要なのだと私は思う。

そして、それこそが穏やかなる心への道なのであると私は思う。



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(『自己の観察と気づきは、なぜ必要?』)





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