タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2023/05/29

仏教とは何ぞや?瞑想とは何ぞや?


タイのお寺では、耳にタコができるほど『無常』『苦』『無我』ということを聞かされる。


お寺にいれば、嫌でも覚えてしまう単語である。


逆に言えば、それ程までに大切なことであるということだ。



『無常』『苦』『無我』



これらを一言にまとめるとするならば、私の思い通りにはならない、どうしようもできないことがらだと言えるのではないだろうか。



私は、仏教とは何なのかと問われれば、それは、自分の思い通りにはならない、どうしようもできない状況とどのように向き合って、どのように付き合っていくかの道だと答えるだろう。



それが仏教の最も核心となる部分ではないだろうかと思う。



タイでは、『修行する』であるとか『瞑想する』ということを意味する言葉がいくつかあるのだが、そのひとつに『法を実践する』という表現がある。


『法を実践する』・・・日本語では何をすることなのかいまいちピンとこない表現だが、いかにも仏教的で非常に良い表現ではないか。


とにかく、タイでは、そのように言えば、修行がしたい、瞑想がしたいという意味となる。


ゆえに、この修行道場で修行をさせて欲しい、この僧院で瞑想を学びたいということを伝える際には、『法を実践したい』というように意思を伝えるのだ。



まさに、仏法の実践こそが瞑想だからである。



『瞑想』の実践とは、今、目の前にあるどうしようもない状況に対して、どのように向き合い、どのようにつき合っていくか、その対応力を磨いていくものだ。


その具体的実践こそが『無常』『苦』『無我』の洞察である。


瞑想すなわち洞察が深まれば深まるほど、逃れることのできない、どうしようもできない状況を明瞭に観察していくことができるはずであるし、そうした事象の姿こそが、一切の事象が有する『性質』であり、真実の姿であるということの理解が深まってくるはずだ。


観察力、洞察力が深まれば深まるほどに、虚妄や妄信から目覚めさせられることになる。



これこそが『瞑想』の実践であり、仏教のすべてであると思う。











『四苦八苦』という言葉がある。


ご存知の通り、『生』『老』『病』『死』の四苦、そして『愛別離苦』『怨憎会苦』『求不得苦』『五蘊盛苦』の四苦を加えた、どうにもならない人間の苦しみを指すのがその言葉のルーツだ。


これらはみな、自分の思い通りにはならない、どうしようもできない状況ばかりではあるまいか。



冒頭で触れた通り、タイのお寺では、『無常』『苦』『無我』ということが強調される。


もうひとつ、何度も何度も重ねて強調されることがらがある。



それは、『死』である。



所謂“耳にタコができる”程までに、しつこく自身の『死』についてリアルに想えということを言われるのだ。


それもそのはずである。


この世の中は、自分の思い通りにはならない、どうしようもできない状況ばかりで溢れかえっているのだが、そうしたなかで最大で最強のもの、なおかつ究極のものが『死』であるからだ。



『死』に臨んだその時、私たちは『無常』『苦』『無我』を突き付けられるのだ。


もう、どこへも逃げることはできない、自分の思い通りにはならない、どうしようもできない状況の極みへと放り込まれるのである。


だからこそ、いつも自身の『死』について想い、いつも『死』の姿をよく観察し、洞察していかなければならぬと教え諭されるのだ。



観察力を磨き、洞察力を磨いていけば、事象の真実の姿を明瞭かつ明快に観ていく力が養われていく。


事象の真実の姿を明瞭かつ明快に理解することができたその先には、それぞれの立場や状況に応じて、自分の思い通りにはならない、どうしようもできない状況とどのように向き合って、どのように付き合っていくのかの姿勢が自ずと明らかなものとなってくるだろう。



私たちは、いつも自分の思い通りにはならない状況と隣り合わせなのだ。


しかし、それに気がつくことができない。


実は、ごく身近で、日常生活のなかで遭遇する諸々の問題や課題についても全く同様なのである。


今、私のすぐ目の前にある問題もまた、自分の思い通りにはならない、どうしようもできない状況だからこそ思い悩み、また苦しんでいるのではないか。



『無常』『苦』『無我』の観察と洞察。


自分の思い通りにはならない、どうしようもできない状況とどのように向き合って、どのように付き合っていくか。


仏教とは、瞑想とは・・・そのような性質を持つ事象に対して、今、私は、どのように対処したらいいかを示してくれるものであり、不確実なことへの妄信から目覚めさせてくれるもの。



・・・仏教とは、瞑想とは、この一言にまとめることができるのではないだろうか。




(『仏教とは何ぞや?瞑想とは何ぞや?』)






▼ご購読はコチラから▼





ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。


踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。


何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。


登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓





仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・


そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。


日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。







毎日更新しています!



情報交換や情報共有等、様々な方面で活用しています。


友達リクエストの際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。






Facebook : Ito Masakazu






0 件のコメント: