タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2023/05/09

『死』は誰にでも訪れるもの


タイのお寺や瞑想修行では、何度も何度も、自身の『死』について想い起こすように言われる。


自然なあり方として、必ず自己におとずれる『死』について想い起こす『死念(maraṇasati/モラナサティ)』だ。


静かに『(この身に)死がおとずれるだろう』『この命は断たれるであろう』『死は当然のことであり、死を逃れることはできない』と、このように憶念し、専心に念じるのである。



そうすることによって、ただちに探究すべきことや今、行うべき善なることを認識し、不善なるありかたから離れ、静まった心で事象を観察することによって、ぼんやりと時を過ごすことが無くなるのである。


そして、死を恐れることや怯えることもなくなるのである。(※註1)



もし、死を恐れない者となったなら、その人には他に恐れるものがほとんどないことになり、落ち着いた静かな心で日々を過ごせるわけである。


死を恐れるだけの意味がないものに変えることができるのであるならば、それは極めて意義深いものとなる。(※註2)



私の自我も誰の自我も無く、ただ自然な状況が流れ行くだけであると了知することであり、そこには私が生じ、消滅する、といったことに執着した思いや捉われはない。(※註3)



このようなことは、比丘や沙彌、一般の参拝者に対する説法として諭されることもあれば、個人的な瞑想指導として諭され、指導されることもある。



馴染みのある表現でもって言うとするならば、それは、『しつこい』し、『くどい』し、『耳にタコができる』ほど、これでもかというほど重ねて言われるのである。


ところが、 『しつこい』し、『くどい』し、『耳にタコができる』ほど何度も教え諭され、何度も指導されても、全く心に響かないのがこの私の情けない姿である。











以前に拙ブログにおいても記事として採りあげているカンポン・トーンブンヌムさんが息を引き取られる最後の瞬間や火葬の瞬間などを収めた『死・・・それは命の最後の授業』と題された動画をもう一度紹介したい。



この動画は、タイトルの通り、大変貴重な教えであり、大切な授業である。



ゆえに何度でも紹介したいと思う。しつこいほどに・・・。




この令和の日本で、このような大切な学びを誰が教えてくれるであろうか。


・・・誰も教えてはくれない。



ともすると、まったく知らずに死んでゆくのではないだろうか・・・


・・・どれほど偉い学者やどれほど広く深い知識を持った先生であっても、教えてはくれない。



大変素晴らしい動画であり、非常に大切な学びであるので、是非ともご覧いただきたいと思う。




【浦崎雅代・タイ仏教・気づきの瞑想】

『死・・・それは命の最後の授業』より(※註4)

↓↓↓

https://youtu.be/JqR2u--5AC8






カンポン・トーンブンヌムさん





この動画では、非常に大切なことばかりが語られているので、その言葉をいくつかそのままのかたちで、あるいは一部多少の編集を加えた形で紹介させていただくこととしたい。





私たちは、知っているでしょうか?


私自身にも命の期限があるということを。



大事だと思う善きことに、今、もう取り組んでいますか?


人生の目的は、昔と今でどのように違いますか?



残された限りある人生をどのように有益に使っていくのか?


人生の最後をどのように過ごしていきたいのか?


愛する身近な人たちに、最後に何を語るのが大切なのか?



こうした問いかけをしないまま、私たちは生きています。



なぜならば、私たちは、普段、死に向かっているなどと思いもしないからです。



善き死を迎えること。


それは、心に苦しみがなく迎えるということです。



心に苦しみなく死を迎えること。


そして、心がいろんなものを手放していること。



それは、心に引っかかることが何もないということです。


手放すということは、執着しないということです。



財産だったり、家族や親戚だったり、すべての仕事だったり、それらを置いていくのです。


もし、心がそれらを置いていくことができなければ、心は動き回り、ジタバタしてしまうでしょう。


まだ死ねない、まだ死ねないと、死ぬ準備ができていないことになります。


準備ができていなければ、善き死を迎えることは難しいでしょう。



でも、私たちは、『善き死を迎えたい』と思うだけではいけません。


なぜなら、それは、ただ未来のことを考えているだけに過ぎないからです。



どうして、私たちは、『今、ここ』を見ようとしないのでしょうか?


『今、ここ』から準備を始めることができるのです。



今、ここにしっかりといること。


そうしたら、しっかりと死ぬことができますよ。



今、ここでできることをやっていくことです。


今、ここから始めなければ、死ぬ時にも間に合いませんよ。



もっとも大切なことは、『サティ(気づき)』と『サンパチャンヤ(正しく知る)』です。


それを日々鍛えていくことです。



私たちが今、どう生きるかが、どう死ぬかを決めていくのです。



私たちが修行に励むのは何のためでしょうか?


死という偉大な体験に出会うためですよ。



善き死を迎えられるか否か?それが試されています。





私たちは、普段、死に向かっているなどと思いもしない・・・それでは、いけない。


ただただ虚しく時を過ごしていくだけである。



今一度、否、今すぐに、『今、ここ』を見なければならない。


人生は、私たちが思っているほど長くはない。




【参考文献・脚註】


・中山書房仏書林『テーラワーダ仏教/教理の基礎と修行実践』2023年2月1日発行


・【浦崎雅代・タイ仏教・気づきの瞑想】

『死・・・それは命の最後の授業』

( https://youtu.be/JqR2u--5AC8 )




※註1:

『テーラワーダ仏教/教理の基礎と修行実践』

P122、P123


※註2:

『テーラワーダ仏教/教理の基礎と修行実践』

P128


※註3:

『テーラワーダ仏教/教理の基礎と修行実践』

P130


以上、引用・一部編集


※註4:

【浦崎雅代・タイ仏教・気づきの瞑想】

『死・・・それは命の最後の授業』

より引用・一部編集

( https://youtu.be/JqR2u--5AC8 )


(※浦崎雅代様よりリンクの許可を得て掲載させていただいています。)




【関連記事】



『バンコクのある病院にて

(2016年11月07日掲載)



『不浄観についての後日談・その壱

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『不浄観についての後日談・その弐

(2018年01月28日掲載)


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(2018年02年11日掲載)



『不浄観に関する追記・前編

(2018年03月14日掲載)


『不浄観に関する追記・後編

(2018年03年19日掲載)



『死を直視する~不浄観~

(2008年04月12日掲載)




(『『死』は誰にでも訪れるもの』)






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