タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2023/02/19

冗談は嘘の類である


嘘はついてもよいのか?


真摯な仏教徒であれば、よいと答えるのは言語道断だろう。


無論、タイ人も同様、よいと答えるはずはない。



ところが、一応は、仏教国であるとされている日本人はそうは答えない。



タイにおいて『五戒』は、誰もが暗唱しているほど浸透していて、知らない人はいない。


『五戒』とは如何なる内容のものなのかを知っているだけではなく、パーリ語の文言まで暗唱している。


というのも、仏教の儀式の際に『五戒』を唱える機会が少なくない。


そのため、タイの人々がその文言を覚えていること自体はごく自然なことで、何も驚くべきことではない。


その機会があるのかないのかの差である。



さて、日本人にこの『五戒』の話をすると、必ず反論されることが“いくつか”ある。


そのひとつが『嘘』についてである。



結論から言うと、日本人の多くは、『嘘は許される』と認識している。


特に『必要な嘘』や『人を楽しませる嘘』は、必要なものだと認識しており、むしろ『嘘』は良くはないけれども社会にとっては必要なものだとの認識で、必要悪だという。











確かに、『噓も方便』という言葉があるように、たとえ『嘘』であったとしても、その人を正しい方向や善き方向へと導く手立てとなるものであるならば、それはむしろ積極的になされるべきだという考えもある。


経典の中にも、そうした喩えがいくつか散見されるのは、ご存知の通りであるが、仏教用語としての『方便』とは、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教えへと誘い入れるために仮に設けた教えを意味する。


これが転じて、目的を達成するために利用する手段や手立ての意味で『方便』という言葉が使われ、『噓も方便』となった。



それはさておき、深い智慧でもってなされるべき方策を浅はかな者が駆使することなどできようはずがない。



私自身に関して言うならば、たとえ(仏教用語としての意味ではなく)目的を達成するために利用する手段や手立てであったとしても、そのようなものを考える頭もなければ、駆使できる力量もない。


やはり、そのような智慧も知識も無い私は、『嘘』を用いずに済む、より良き手段を捻り出す方へと力を注ぐだろうと思うし、またそれしか方法はないだろう。



ゆえに、私は、原則としては、やはり『嘘』はいけないと言いたい。



『人を楽しませる嘘』であっても同様だ。


人を楽しませる『嘘』とは、冗談やユーモアのある『嘘』のことである。



一見すると、何も問題はないように思えるのだが、冗談やユーモアのある『嘘』の類は、人を揶揄したり嘲笑ったりすることによる笑いが多い。


必ず不快になる者がどこかにいるだろうし、人を揶揄したり、嘲笑うこと自体が善い行為であるとは言い難い。


人を笑わせて楽しませることができれば、何でも許されるというわけではない。



私は、人を騙したり、陥れたりして笑いをとるようなテレビ番組など、好きにはなれない。


最終的にネタを明かし、笑へと持っていくとは言え、人を騙していることに変わりはないし、陥れられた側の心はどうだろうか。











タイの寺院では、一般社会よりもさらに厳しく『嘘』について指導される。


冗談やユーモアも『嘘』の類であるとしてみなされるため、軽々しく笑いはとれない。


・・・というよりも、出家生活の中において笑いなどとる必要はないだろう。



それでは、どうしても『嘘』をつかなければならないような場面に遭遇した時には、どのように対処したらよいのだろうか。


いや、出家生活にあっては、『嘘』をつかなければならないような場面があること自体がおかしい。


ないのが原則だ。


ここでは、言葉による不注意で『嘘』となってしまいそうになった場面では、どのように対処したらよいのかという表現へと変えることにする。



自分の言葉を『嘘』としないためのいくつかの方法を教えていただいたことがあるので、以下に列挙してみたい。




・『嘘』をつかないように常時言葉に注意する。


・『嘘』とならないような表現を使ったり、他の表現へと言い換える。


・どうしても『嘘』を言わなければならないようであれば黙る(この場合、悪意のある『嘘』や故意の『嘘』を想定するものではない。)。


・たくさん話せば『嘘』をついてしまう機会が増えるため、常日頃から口数を減らし、言葉によく気をつけるようにする。




上記は、実際に出家生活の中で、先輩比丘から指導していただいた事柄だ。


私は、これらを今も心掛けるようにしている。



『嘘』をつかないというのは、『五戒』の中にある。


『五戒』に対する日本人の印象は“禁止事項”くらいにしか考えていないとは思うが(拙ブログにおいて以前にも記事にしている)、『五戒』とは単なる禁止事項ではない。


努力徳目であり、学習徳目である。


日本人は、完璧主義者が多いのか、完璧に守れないことであれば、それは意味がないものだと受け取るようだ。



そうではない。



できる限り守っていこうとする姿勢を持って生活していくところに意味があるし、実際にそうした方向へと向かって行くものなのである。



そして、なによりも忘れてはならないのが、守ろうとする姿勢は、そのまま『気づき』へと繋がっていくということだ。


そのことに対して常に注意を向けて、気をつけていくことで、自身の姿をよく知り、観察していくことへと繋がっていくのである。


自身の姿をよく知っていくことで、自身のあり方を正していくことができるのだ。



その意味においては、『五戒』を意識するという姿勢を持つだけで、気づきを育てていくことへと繋がっていくし、それがそのまま瞑想となっていくのである。



『五戒』とは、単なる禁止事項であるのではなく、自身の生き方を省みて、人生を磨いていくものに他ならないのである。


だからこそ、たった五つの徳目ではあるが、日々の心と生活が調い、少しずつ人生が変容していくのである。



仏教徒であるのであれば、やはり『嘘』はいけないものだと、はっきりと言い切るようにしたいものだ。


『嘘』ひとつとってみても、日々の『気づき』へと繋がっているのである。




【参考:『五戒』】


五戒とは、以下の五つの徳目である。

※原文は、パーリ語のタイ語読みにて表記。



1、パーナーティパータ― 

 ウェーラマニー シッカー パタン

 サマーティヤーミ


殺生より離れる(生きものを殺さない)戒を保持する


2、アティンナーターナー

 ウェーラマニー シッカー パタン

 サマーティヤーミ


盗みより離れる戒を保持する


3、アプラマチャリヤー

 ウェーラマニー シッカー パタン

 サマーティヤーミ


淫らな行いより離れる戒を保持する


4、ムサ―ワーター

 ウェーラマニー シッカー パタン

 サマーティヤーミ


妄語(嘘・いつわり)より離れる戒を保持する


5、スラ―メーラヤ マッチャパマー タッターナ

 ウェーラマニー シッカー パタン

 サマーティヤーミ


放逸の原因である酒類(麻薬なども含む)より離れる戒を保持する




【関連記事】


『嘘をついていいはずがない』

(2021年04月09日掲載)




(『冗談は嘘の類である』)






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6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんにちは。
かなり久しぶりにブログを訪問致しました。
だいぶ前の記事でブログ主さんがタイで修行中に現地の女性に「皆が出家したらどうするの?」的なこと言われたと書かれていましたよね。
その記事を読んでからずっと私の中でその質問がずっと頭に残っていて、その答えを考え続けていました。
でも未だに確かな答えを見つけ出せていません。
ブログ主さんは答えが出ましたか?もし答えが分かったら教えていただけると幸いです。
完全な答えが出ていなくても、何か分かったことがあればそれを教えていただけるととても嬉しいです。

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

私も何名かのタイやミャンマーをよく知る方に尋ねました。
『現実的にあり得ない』という答えが一番納得しました。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

ご返事ありがとうございます。
なるほど。そういう答えもあるんですね。
難しいな・・・。
ありがとうございます。m(__)m
ブログ頑張ってください!

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ありがとうございます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

横から失礼します。
日本で、タイ国のタンマユットのワットパーに出入りしている日本人です。
埼玉、西多摩、松本、のお寺などで話を聞きます。その中で人間は4つの蓮の花に例えられると聞きました。
1.泥の中で咲かないままの蕾。
泥の中で何も聞けないし、信仰もしない人達の事。
2.蕾として泥からは出ているが、水の中に潜ったままの蕾。
水から出て仏法を聞き、機会を得るチャンスはあるが水から出るチャンスを得られない人達。
3.蕾として水面に出た蕾。
ここまでくると、出家の道も、アラハンへの道もご用意されるが、蕾のまま花開く事がまだな人達。
4.大輪を咲かせた蓮の花。
全てが整い、大輪としての道を掴む事の出来る人達。

全ての人達が大輪を咲かせられないし、蕾である事に興味もない方が大半ですよね。
人として生まれたからには、大輪を咲かせてみたいものです。
横からすみませんでした。
ご縁をありがとうございます。

Ito Masakazu さんのコメント...

匿名様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。


タイのタンマユットのお寺で学ばれているのですね。

道は示されている。
その道を歩むのか、歩まないのかはあなた次第である。

このようにもおっしゃっておられますものね。
怠らずに励む。ただそれだけしかないのだと思いますね。


コメントをいただきましてありがとうございます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。